極楽へ

                      

何もかもが壊れてしまえばいいのに。

 こんなことを考え出したのはいつからだったろうか。狭いエリアの中で周りや己を信じきっていた無邪気な子供時代を過ごし、中学に入って世間というものが少し見え出してきた頃から、何かが変わった。世の中は笑ってだけ過ごせるものではない。そんな単純で、当たり前のことが漸く掴めたのだ。それでも、ただんだだけでは何も変わらない。

何も考えていなさそうな同級生達を見て吐き気と苛立ちを覚え、そんな中にいる自分が、尚更嫌になった。高校に入ってからは、それがますます顕著になった。レベルが高い進学校に入ったのに、外の器が変わっただけで、彼らの中身は変わっていないようだった。学校のレベルが高いのと、生徒の質が良いのは、必ずしも綺麗な比例のグラフを描くものではないようだ。大学に入ってみると、少しはましになった。流石に彼らも落ち着いてくるようだった。いつまでもぷかぷかと良い御身分で浮かんでいることへの危機感が、かさついた肌に突き刺さっていた。けれど、平和的な大学生活を送り、ぽん、と社会に足を踏み出してから、また世界は変わった。

 両親が交通事故で死亡した。涙はなかった。天涯孤独になった。

 少しずつ、世界は壊れ始めている。

 昨夜から引き続いて昼過ぎまで降っていた雨は、至る所にその痕跡を残しながらも、すっかり影を潜めていた。空を仰ぎ見る。どんよりと黒くて、星は全く見えない。午後十一時の住宅街は、電柱の影に何か異形のものが待ち構えていても、なんら違和感がないように思えた。雨を吸った傘を握り直す。頭の中で、当たり前のように呟く。

 何もかもが壊れてしまえばいいのに。

 それなりの会社の、それなりの人間関係の中で、それなりの仕事を、それなりにこなす。そんな毎日。三ヶ月前まで付き合っていたそれなりの女とは、のっぺりとしたノーマルな恋愛で、ありふれた別れを告げて終わった。ベルトコンベアーに乗せられて運ばれてくる『日常』を淡々と表情を変えずに処理していくような心地の生活を送っている。喉の奥では、何かが叫びだしそうな気がするのだけれども。

 高くもなく、そんなに安いわけでもないマンションの自宅に到着する。いつもダイレクトメールしか入っていない郵便ポストを形式的に開いた。

『―――始まりだよ』

突然に声が聞こえた。女の声のような気もするが、男の声だったような気もする。高くもなく、低くもなく、心地良いようで、ざらざらした声。耳ではなく、頭の芯が言葉を捕らえた。ゆっくりと顔を上げて一応周りを見る。ばたばたと街灯に蛾が群れている。それだけだ。郵便ポストに再び目をやる。空である。無機質な郵便ポストに、人間くさい溜息を封じ込めた。

これといってどうということもない2DKの部屋である。インテリアに気を使うわけでもない。しかし一応、乱雑になるのは嫌だから、片付けてはある。一人暮らしの気安さと、後ろめたさが同居している。人を自分の部屋に招くのは好きではない。己の領域が侵される気がするからだ。だからこの部屋は、俺だけの箱だ。

ソファーに背広と鞄を放り投げて、ネクタイを緩めながら薄暗いキッチンへと向かった。やけに喉が渇く。白くこぢんまりとした冷蔵庫の前にしゃがみこむ。確かまだ缶ビールが二、三本残っていたはずだ。

がちゃり。

冷蔵庫の中には、女が入っていた。

ひやりとした心地良い風を遮るように、女――まだ少女と呼んだほうが良さそうな感じだ――が、体は横に向けて体育座りをし、顔は此方を見ている。じっと、見つめている。体には何も纏っていない。薄暗いキッチンの中で、冷めた冷蔵庫の明かりが彼女の肌を白く照らしている。大きな瞳で、じっと、見つめている。知らない少女だ。時々瞬きをするから、死んではいないし、人形でもないようだ。本物の、生身の少女が冷蔵庫の中にちょうど良く収まっている。

――俺の缶ビールは何処に行ったのだろうか。 

そんなことを考えながら、少女に尋ねた。

「ねぇ、君、寒くないの?」

少女はそれには答えず、首を小さく傾げて、

「あなたはアタシを愛してる?」

そう聞いてきた。

ムカついた。

何でもなかったようにドアを閉じた。閉じる刹那も、少女は表情を変えずに俺を見ていた。

五秒数えてもう一度冷蔵庫のドアを開いた。

少女の姿は何処にもなかった。いつもどおりの隙間が目立つ冷蔵庫だ。ちゃんと缶ビールは三本残っていた。幻覚を見たのだろうか。右手を伸ばして缶ビールを一本取る。冷たくて気持ちが良い。でも、飲む気は失せてしまった。右の頬に軽く押し当てて冷たさを更に実感してから、冷蔵庫に戻してドアを閉めた。水滴が付いた手をタオルで拭いながら、ふと、嫌な思いに駆られた。

――冷凍庫の中は?

気のせいだ、と思いながらわざと素早く手を伸ばして、取っ手を掴む。でも、そこから先の動作がなかなか進まない。手のひらに汗を掻いている。

――冗談じゃない。

そう呟いて勢いよくドアを開いた。

冷凍庫の中には、男の首が入っていた。

 先程の少女のように、全身ではなく、首だけ。冷凍庫には、人一人が入るスペースなんか無いからか。男は、まだ十五、六程の少年のようだ。瞬きをしているから、此方も生きているようだ。でも、首だけである。生首だ。綺麗な少年は俺を見ている。少年の長い睫毛には、小さな氷の粒が輝いている。唇の色は紫だ。俺を見ている。彼は震える唇で俺に尋ねた。

「あなたは僕を愛していますか?」

俺は顔を背け、勢いよくドアを閉めた。バンッ、と大きな音が立つ。あの少年は誰だ?恐る恐る、もう一度冷凍庫のドアに手を掛ける。と同時に力を込めて手を引いた。

 中は、空だった。

 すかすかの冷凍庫の中から、冷たい冷気が漂ってくるだけだ。

 ゾクゾクゾク、と背中、いや、体中に悪寒が走った。腹の底で、何かが沸々と湧き上がろうとしている。

「……誰だよ」

無意識に唇から漏れる。自らが発したその言葉に触発されたように、更に得体の知れない恐怖が覆い被さってきた。

「――――誰だ?」

俺はそう唸ると、手当たり次第に扉を開けていった。

 シンクの下のドア。ガチャリ。胎児のように体を丸めた若い女。

「君は私を愛してる?」

バタン。ガチャリ。影も形もない。

 食器棚。ガチャリ。中年の男の顔。

「お前は俺を愛してるのか?」

バタン。ガチャリ。僅かな食器が整然とあるだけ。

 電子レンジ。ガチャリ。白髪の老女の顔。

「アンタは私を愛しとるのかのう?」

バタン。ガチャリ。何にも無い。

 炊飯器。クローゼット。押入れ。引き出し。戸棚。洗濯機。浴槽。

ガチャリ。皆が――。

「あなたは」「お前は」「君は」「貴様は」「アンタは」

バタン。俺を――。

「私を」「俺を」「アタシを」「儂を」「僕を」

ガチャリ。見ている――。

「愛しているのか?」
――耳の奥で何かが笑っている。俺を――?

「――うわあぁぁぁぁっ?」

俺は頭を抱え込んだ。

「止めろ止めろ止めろ――ッ?誰だ!てめえら一体誰なんだ!何でそんなこと聞くんだ?」

嫌だ。これは何だ。どうしてこんなことになる。俺が何をした。

 血が逆流していく。頭の中には、もう、何も無い。

 世界が壊れる。俺の世界が―――。

 ――俺は、それを望んだはずではなかったのか?

 バアンッ、と大きな音がして、閉じていた扉が一斉に開いた。中からは、暗い瞳が俺を見ている。息を殺して。皆が俺を見ている。見つめている。

「止めろ………」

言うな。それ以上もう―――。

「あなたは私を愛していますか?」

全員が口を揃えて俺に聞いた。ぐうっと体中に熱が走った。

「――言うな――――ッ?」

俺は床にうずくまり、両手で力いっぱい耳を塞いで、小さくなった。どうして体が震える。世界と自分が触れる面積を少なくしたい。何かが俺の中に侵入してくるのが怖い。皆が嗤(わら)っている。

 耳鳴りがする。

「――何をそんなに怖がるのですか?」
――声が、聞こえた。

 そろそろと手を耳から外し、顔を上げる。薄暗い部屋の中で、俺の目の前に誰かが座っている。男のような気もするし、女のような気もする。長過ぎる髪の毛を束ねもせずに垂らしている。口角は綺麗に上を向いているが、長い睫毛に縁取られた目は、全く隙を見せずに俺を凝視している。微笑しているが、そのままの顔で俺をいきなり殺しても、違和感が無いように思えた。人形のように、端正な顔をしているからこそ、尚更それが俺には現実味をもっている。

こいつは仏か鬼か――。

「――誰だ」

掠れた声で尋ねる。そいつは笑うだけだ。

「さぁ?それよりも、あなたは何故愛していると言わないのです?何故そんなに怯えるのです?」

そいつは細い首を傾げて、俺に聞いた。長い髪の毛がさらさらと肩から滑り落ちる。その挑発した物言いに、日頃の鬱々とした堆積物が恐怖心を凌駕した。

「―――愛とは何だ。人は簡単に愛してるなんて言うがなぁ、正確に愛の定義なんて誰が出来る?ええ?正義や悪だってそうだ。そんな言葉振り翳す奴は、その本質にほとんど気付いてないじゃないか。その上口先だけで、大抵の人間は全てを知ったような顔をしている。実際には、何を知っているというんだ?上っ面の人生しか見ようとしないし、それしか知らない奴らと俺を一緒にするな。俺はなぁ、そんな表皮みてぇな奴らが死ぬほど嫌いなんだよ!こんな世界、壊れちまえばいいんだ?」

俺は絶叫した。先程までの、自分の世界が揺らぐことに怯えていた俺は何処へ行った?

 そいつはまた笑った。やはり目は笑っていないが。

「――面白い。実に面白いですよ。確かに、この世界はくだらなさ過ぎる。だからと言って、そう簡単に壊せるものではない。その、口先だけの人々が大半を占めていますからね。――ですから、我々のほうが此処に見切りを付けるのです」

「――我々?」

「そう、選ばれた種である我々ですよ」

そいつはそう言うと、十五センチ四方程の真っ黒い箱を俺の前に差し出した。

「この中に手を差し入れなさい。そうすれば、この堕落した世界とは無縁の世界、まさに極楽へと行くことが出来るのです。其処にはあなたが嫌うような愚かな人々は一人もいません。悩みも苦しみも、一切ありません。あなたはただ其処で、繰り返される平和を享受するだけで良いのですよ。――其処は、選ばれた種の人しか、行くことが出来ないのです」

そいつは箱の蓋を開いた。中も外見と同じように真っ黒で、何か入っているのか、空なのか分からない。無限の広がりを見せる暗闇だ。

 耳鳴りも、嘲笑も消えていた。変わりに、そいつの魅惑的な囁きが鼓膜を震わす。それは内耳で甘い蜜に変わり、ひたひたと俺の脳髄を満たしていく。

「貴方、この世界なんか壊れてしまえばいい、と言っていましたけど、自分の世界が壊れるのを―――非常に恐れていますね」

形の良い唇から、真っ赤な舌の先を出して、そいつは舌なめずりをした。その様は、狡猾な蛇が獲物を捕らえようと待ち構えているのを連想させた。

「此処では、劣等感などというものは存在しません。在るのは、選ばれた種であるという優越感。いつまでもこんな処にしがみ付いている理由などありますか?ねぇ?」

そうだ、俺は、選ばれた種なのだ。あいつらとは違う。此処にこれ以上いる必要は無い。このままでは俺も堕落してしまう。そんなのは嫌だ。だから―――。

 そいつの顔と箱を見比べる。そいつは笑みを浮かべている。

「さぁ―――」

俺を促す。俺は意を決して箱の中に右手を差し入れた。

どうということも無い、ただの硬い質感。普通の箱だ。中をまさぐるが、何も入ってはいない。

――どういうことだ?
「おい―――」

俺はそいつの顔を睨んだ。騙したのか?俺は選ばれた種ではないのか?何も起きないじゃないか―――。

と、右手にぐにゃりとした感触があった。急いで箱の中に視線を注ぐ。依然として箱の中は暗くて様子が分からない。それでも、右手には何かしらの感触がある。

「これは………」

そいつの顔を凝視する。やはり笑顔を貼り付けたままだ。

「左手で、右腕を触って御覧なさい」

柔らかいが、拒否することを受け付けぬ響きの声だった。俺は黙って右腕を触った。

 ぐにゃ。

それは、人間の皮膚の感触ではない。焦って、手の先の方を辿る。其処にはもう、俺の右手はなかった。変わりにどろどろとした、蝋状のものが右手首の先から滴っている。俺の右手は溶けてしまった。

「……どうなっているんだ」

そいつは答えない。答えようとする素振りすら見せない。笑っている。

 ――何に対して笑っているんだ?

忘れかけていた恐怖心が再び湧き上がってくる。俺は右手を箱から抜こうとした。が、抜けない。箱の奥で、溶けてしまった右手を、見えない何かが引っ張っているような感覚に陥る。

「もう、後戻りは出来ません。あなたは、選ばれた種なのです」

そいつは落ち着き払った声でそう告げると、細く冷たい指で俺の頬をなぞった。

「ほら、もう此処まで進んでいる。綺麗ですよ」

そいつは目を細めて嬉しそうに言うと、そのなぞった指を俺に示して見せた。

 その白い指先には、溶けた蝋のようなものが絡み付いている。

俺の頬も、もう溶け出したのか。

俺は諦めた。体が崩れて行く。

「本当に、この世界から…抜け出せるんだな?」

舌が上手く回らない。体内も溶け出したか。

「えぇ。――では、極楽でお会いしましょう」

そいつはそう言って笑った。

そいつが笑っているのが、この世界だろうと、俺だろうと、もうどうでもいい。

だから俺は、卑屈に笑い返した。

視界が歪んだ。そして世界は壊れた。

何処にでもあるようなマンションの、ありふれた一室。ずるずると、得体の知れない、溶け出した蝋のようなものが、さほど大きくない黒い箱の中に、まるで意識を持っているかのように入っていく。日常と非日常が溶け合いながら存在している。蝋が完全に収まると、それを前にして座っていた、不思議な容貌をした人は、箱を大事そうに抱え込んだ。女なのか、男なのかはっきりしない。その端正な顔には柔らかい笑みを浮かべている。満足そうだ。細い指で箱をしばらく撫で回していたが、再び床に置くと、

「さぁ、皆帰っておいで。新しい友達が増えたよ」

と、静まり返った部屋の中に呼びかけた。そうすると、部屋中の扉が、そっと回りを伺うようにして開き、中から先程の溶けた蝋と同じものがずるずると這い出してきた。そして、真っ直ぐに箱を目指して動き出した。笑っている人は、その様子を微笑ましそうに眺めながら、

「今度入った人はねぇ、若い男の人だよ。なかなか格好良いし、面白い。ちょっと短気、というか、率直かな。思ったとおりだ。皆も気に入ると思うよ」

そう蝋達に告げた。蝋はそれを聞いているのかいないのか、一心不乱に次々に箱の中に入っていく。その様子はひどく人の心を掻き乱し、皮膚が粟立つような不快感を覚えさせる。

 蝋が全て収まると、その人はまた箱を抱えた。

「どうしてこの世界はこんなに汚れているんだろうね。人間が生息しているからかな。でも皆は大丈夫だよ。此処にいるから。皆は選ばれた種だから。ずっとこの中にいるといい。悩みも苦しみも憎しみも悲しみも怒りも恐怖も無い此処で。得ることの出来ない愛を請うんだ。そして拒否されて、この世界の汚さを実感するだけでいいんだ。愛は、私からの愛だけを得ていればいい」

その人はもう堪らなく幸せそうに笑って箱を撫で回す。

「さぁ、行こうか」

その人は箱をしっかり抱えたまま立ち上がった。部屋のベランダのドアを開け、一歩外へ出る。

夜陰に輪郭線を滲ませる。この人は夜が似合う。欠けた青白い月を仰ぎ見て、感嘆とも、羨望とも、軽蔑とも取れるような溜息をついた。

「――――極楽へ」

霧が濃くなるように、その人が夜に溶けていく。その人と、世界の境界線が曖昧になる。その人と世界が一つになるように。消えかけているその人は、少し高い手摺に難なく腰を掛けた。そしてそのまま、体を後方へ倒してベランダから落ちた。羽が落ちるようにゆっくりと。やはり、笑っていた。

 夜は何事も無かったかのごとく、静かだった。

 

                  

一人スタッフロール。

 まぁた暗いモノを書いていると思ったそこのあなた、正しいですよ。ネガティブシンキングの塊です。でも、こういうものを書くのが一番合ってるんですよ。良くないかもしれませんがね。一人薄暗い部屋でカタカタパソコン叩いてこんな話書いてたりします。怖いね。本人的には、もっと妖怪とかが出てくるような話を書きたかったりします。妖怪馬鹿なもんで……。本当はミステリ好きなんですけどね。書けないので諦めてます。

 これに出ている男の人に、私の考えを幾らか語らせています。まぁ、あそこまで極端ではないですが。気付いたら自分も、表皮もしくは上皮しか見てないことの方が多いですよ。世の中、そう簡単には悟りは開けない、ということですかね。

              

 

  弐千弐年、W杯開催中の月にて   

 河因 拝