絡繰箱琴的絵空物語  (作者:双月星樹)


     1
 「…っかしいなあ…絶対ここだと思ったのに……やっぱたまには掃除とかしなくちゃかなあ………」
 美樹は小さくため息をついて動かしていた手を止めた。
 ふと見ると体中ほこりまみれだ.軽く顔をしかめ、何度かはたいてみるがあまり落ちた様子はない。
 美樹は、彫刻刀を探しているうちに床中に所狭しと散らばった物をざ−っと横に押しやって場所をつくり、そこにぐったりと座り込んだ。
 「………なんでせっかくの日曜日にほこりまみれになって彫刻刀なんか探さなくちゃなんないのよ。彫刻刀なんか中学の時に卒業したってーのよ。なんでいまさら………」
 しばらくぶつぶつ言っていた美樹だが、暗くなってきたのに気付き、電気をつけた。薄暗さになれた目に白い蛍光灯の光が突きささる。
 体をのばして机の上の白いビニール袋を取り、その中から何個かのパンと紅茶を取り出した。紅茶はいつもの、パンは前に友達がおいしいと言っていたパンだ。
 これが今日の夕食。美樹の母親は七年前に死んで、以来父は仕事で家にほとんど帰らなくなった。その結果がこれ。最初の頃は不満もあったがもう慣れた。
 すっかりなまぬるくなった紅茶を一口飲んでいちごジャムパンの袋をあける。さほど腹は減ってなかったが、絶対においしいと言っていた友達の言葉にそれをとりあえず口に運ぶ。数回かんで思いっ切り顔をしかめた。
 「なにこれ………薬くっさい……。なんでこんなのがおいしいって言えるの?舌くさってんじゃない!?」
 ただでさえ悪かった機嫌がマズイものを食べたことでさらに倍増した。美樹は舌打ちし、口のなかの薬くさいパンは紅茶でのどの奥に流し込み、残ったパンをごみ箱の中に放り込んだ。
 口直しに紅茶をがぶ飲みしていると、
 「なにしてやがるっテメエッっ!?」
   げほっ!ぐぇほっ!?けへっかへっ!?
 突然の声に驚き、美樹は思いっ切りむせた。
 一瞬前まで絶対にこの部屋の中には美樹しかいなかったのだから当然といえば当然だ。
 「…なっ!?…な………」
 涙目であたりを見回すが、声のするようなものはない。混乱した頭で今のは空耳だったんだと思い込もうとした時、
   ガサッ…ガサ……
 ごみ箱の中から音がした。
 「なっ……ゴッ…ゴキ……?」
 美樹はとっさにごみ箱からあとずさった。
 …そうだった。時々出るのだこのごみ箱は。あの黒光りするひらべったいフォルム、素早い動き、そして空を飛ぶあの瞬間、どれをとっても想像しただけで鳥肌が立つ。
 さっきまでとは別の意味で涙目になった美樹。
 「だれがゴキブリだ!?だれがっ!?」
 そこへごみ箱の中からさっきと同じ声がした。
 「しゃっ!しゃべるゴキブリーっっっっ!!」
 「だから違うっつってんだろーがっ!」
 「さっさっ…殺虫剤っ!イボコロリ…レセナ…違うっ!キンチョールっっ!!あーどこいったか分かんないーっ!」
 パニクっている美樹の耳にはゴキブリもどき(?)の声はさっぱり届いていない。真っ青になりながら、床のあちこちで小山を作っている物をひっくりかえし、必死に殺虫剤を探しまくる。
 「………人の話をきけーっ!」
 ガサガサとごみ箱の中からなにかがはい上がってきた。
 「ひゃ…っ!」
 美樹は反射的に手に持っていたものを『それ』に向かって吹き付けた。少し間があいて部屋のなかにそこはかとなくフローラルな香りが漂い始める。
 「……………香水……」
 おいおいこんなものゴキブリ相手には屁の突っ張りにもなりゃしないって。
 自分自身の行動にツッコミを入れる美樹。
 「………おい………いきなりなにしやがる………」
 「うわっはいっごめんなさい…………っ?」
 思わず謝ってから声の主を見、美樹はぱちぱちとまばたきをした。ついでに目もこすってみる。
 「…へ………?………ゴキ…ブ…リ……?」
 「違うっつってるだろーが。いったい何回いやー分かるんだ!?そこについてる耳はただの飾りかよ!?」
 ごみ箱の縁に偉そうにふんぞり返っていたのは、身長約30センチくらいの男の子だった。栗色の髪にグレーの瞳。黒光りの恐怖の大王の姿を想像していた美樹は体中から力が抜けるのを感じた。
 「………なんだ。ゴキブリじゃないじゃん。チビスケ、あたしになんか用?」
 ゴキブリの恐怖が去った途端いきなり「素」に戻る美樹。
 普通、ゴキブリなんかよりこっちの事態の方によっぽど大騒ぎしそうなもんだが。それとも人間、一度パニック状態を極めてしまったら、後は案外落ち着いてしまうのだろうか。 「だれがチビスケだっ…。……っ…そうだ!これだこれっ!」
 一瞬美樹にけおされたチビスケだったが、負けじとごみ箱の中からさっき捨てられたパンを持ち上げる。
 「まだ食えるだろ−がっ!テメーなんでこんなことしやがるんだよっ!?」
 「なんでって……クソマズイから。やっぱ、ジャムパンなんか買うんじやなかったわ。……で、ところで聞くけどあんただれ?」
 ある意味一番初歩的な質問。
 「………オレは…オレはっ………もったいないおばけだ!」
 なぜか赤くなって叫んだチビスケ…もとい、もったいないおばけ。美樹の顔に「?」マークが盛大に浮かぶ。
 「もったいないおばけぇ〜?なにそれっ」
 「読んで字のごとくっ!もったいないことしてるヤツのとこに出るおばけだっっ!!」
 意味もなく胸を張るもったいないおばけ。
 「ふ〜ん……。で?」
 「『で?』じゃねえっ!もーちっとマシな反応はねーのかよ!?言ってるこっちがハズイだろーがっ!?」
 「………マシな反応って言われてもねぇ……」
 美樹はもったいないおばけを上から下まで見た。
 「…なんかカッコとかあんま幽霊っぽくないし……」
 くすんだえんじ色の大きな帽子に三角襟の深い青色の上着。膝丈の黒いズボンに長めの靴下。先の膨らんだ革靴。要所要所に付けられたいろんな色のビーズ。なんだか全体的に長い間着古したような独特の味があって幽霊というよりは、どこかで見たことのあるような一昔前の異国風おぼっちゃんという感じだ。
 「…それにあたし霊感とかない方だし。金縛りとかもなったことないし。いきなり幽霊に現れられてそんなこと言われてもね……」
 「オレは幽霊じゃないっ!…っていうかちっがーうっ!パンの話だパンの話っ!!」
 青筋を立てて言うもったいないおばけ。
 「………ああそっか。でもやっぱマズイものはマズイし。あんな薬くさいのなんか金払って食べる価値なし。あんなのおいしいって言う人の気が知れないわ」
 しゃあしゃあという美樹。
 「……だからってそんなホイホイ捨ててもいいのかよ」
 「いいんじゃない、べつに。みんなやってるもん」
 もったいないおばけはぴきりと顔を引きつらせた。
 「みんなやってりゃなにしてもいいのかよっ!?」
 「とりあえずはいいんじゃない?」
 間髪入れない美樹の言葉に、彼のなかでなにかが切れる音がした。中指をおっ立てて真っすぐ美樹を睨み上げ、
 「おまえ、とりあえずで‥捨てられるものの気持ちなんか考えたことないんだろ!いっぺん味わってみやがれっ!」
 叫んでどこからか片方の先だけが鋭く折れたようになった銀色の長い棒を取り出した。平たいほうで美樹の額を思いっ切り突く。
 「いったぁ−っ!なにすんのよ……この…チビ……っ」
 言葉は最後まで言うことができなかった。反撃用にあげた手がゆっくりと下におりていく。体から力が抜ける。急に視界が暗くなってまぶたがものすごく重い。
 すとんと夢に落ちていくまでのほんの数秒間。遠くなる意識がとらえたもったいないおばけの顔は、なぜか一瞬だけひどく淋しそうな顔に見えた。


     2
−−−チリン…チリリィン
  澄んだ音 何の音だろう
  暗い…暗い……ここは暗い…
  銀色青色赤い黄色い……光が……星みたい
  きれい……きらきら…きらきら…星がおちてくる…

 「−−−きらきら………はっ!」
 美樹はびくっと勢いよく飛び起きた。
 床の上で寝ていたせいか体中が痛い。彫刻刀を探しているうちにそのまま寝てしまったみたいだ。
 ふと時計を見る。七時半をとうの昔に過ぎていた。
 「!・・・・・おくれるー!」
 なにか夢を見ていたような気もするが、それを悠長に思い出している暇はない。
 「うわわわわわ、ヤバイぃぃぃぃぃっっ!」
 急いで制服に着替えて家を飛び出す。お腹はすごくすいていたが今日は朝ご飯抜きだ。もちろんお弁当もない。
 −−騒がしい一日が始まろうとしていた。

 「おはよー。よしっ、先生まだきてないねっ!」
 ガラッと教室の戸を開けた。一瞬視線が集まる。普段ならここで視線はまたもとの所へ戻るはずなのだが………
 −−−注目されてる?
 思わず髪を押さえ、ざっと服装をチェックした。しかし特に目立ったところはない。どう考えてもこんなに注目を集めるはずはないのだが………。
 「……自意識過剰ってやつかな」
 そう結論付けてなかのいい友達の所へ行く。
 「はよっ。ねーねー彫刻刀あった?あたしねえ、昨日探してたらそのまんま寝ちゃってなんか体中痛くって……」
 「……………………」
 「どしたの?ジュンコのとこにもやっぱなかった?」
 返事がない。美樹はきょとんとした顔でじっと見つめられていた。
 −−なんかあったのかな?


 「あれ…彫刻刀って…今日…じゃ……なかったっけ…?」
 不安を感じながら聞くと、
 「……えっと…だれ?」
 逆に聞き返され、美樹はきょとんとする。
 「え………?なに言ってんの!?あたしよあたし!」
 「………?あの………クラス間違ったとかじゃなくて?」
 美樹は教室のなかを見回した。クラスメートたちの興味津々の視線が自分に集まっている。教室は間違っていない。
 「なに言ってんのよ!?あたしよ!新城美樹よ!あんた記憶喪失にでもなったってゆーの!?たちの悪い冗談ばっかり言ってるとさすがに怒るよ!?」
 たしかに昨日このコとちょっとしたケンカはしたけど、こんな仕返しの仕方は気に食わない!いつもみたいに正面から言えばいいのに!
 「…………だって、うちのクラス…新城さんなんかいないよ……」
 まだ言うか!
 ひかえめに言うジュンコに美樹はムカッときて教卓の上の出席薄をひっつかんだ。
 「いいかげんにしなさいよ!なにすねてんのか知らないけどね言いたいことがあるんならハッキリ言えばいいじゃないの!いっくらあんたが知らないって言っててもねえ、ここにはちゃあんとのってんのよっ!見てみなさいよっ!ほらっ!16番、新城美樹って!………れ?………16ば…ん杉上和子………?…なにこれ………あたしの名前……は……?」
 くらりと足元の床が沈み込んだ気がした。
 出席簿に印刷されている名前から自分の名前だけがまるでもとからそうであったかのようにきれいに消えていた。
 自分より後だった人の出席番号が一ずつずりあがっていた。40人だったはずの生徒数の欄が39人になっている。
 「………な………」
 −−−いったいなにがどうなって−−−
  ガラッ
 教室の戸が開いて先生が入ってきた。
 ざわざわとしていた空気がさっと緊張を帯びる。
 美樹はすがるような目で担任を見つめた。
 担任は立ったままの美樹をしばらく見、眼鏡をずり上げながら言った。
 「あー………転校生がくるという話は聞いていなかったのだが………」
 担任の間延びした言葉に立ちくらみがした。一瞬意識が遠退きかけ、思わずジュンコの机に手をついた。
 「………だいじょうぶ………?」
 心配そうに見上げてくる。こんなジュンコは知らない。こんな他人行儀な態度なんか知らない!
 美樹はふらりとジュンコの机から離れ、そのまま教室の外へ駆け出した。
 −−−一体何が起こったっていうのよ!?集団で記憶喪失にでもなってんの!?それとも担任まで巻き込んだいじめかなんか!?いじめられるようなことなんかしたことないわよ。あたしっ!なんだってゆ−のよ!
 唇を噛み締め、混乱しながら前も見ずに廊下を走っていると、だれかに正面からぶつかった。
 「わっ!ごめんなさいっ!」
 顔を上げて驚いた。ぶつかった相手は美樹の見知った人…というか彼氏の渡辺芳弘先輩だったのだ。むちゃくちゃに走っているうちにいつのまにか無意識で芳弘の教室の前まできてしまっていたらしい。
 美樹の顔がぱあぁっと明るくなった。
 なんといっても美樹の自慢の恋人なのだ。クラスメートみたいに自分が分からないはずがない。芳弘ならこの事態を分かってくれる。芳弘さえいれば絶対なにか答えが見つかると美樹は一瞬にして確信した。
 「聞いてよ芳弘っ!クラスのみんながあたしのこと知らないって、先生まで転校生って言うのよ!出席簿も何か変だし、あたしもうどうしたらいいか分かんなくって……」
 美樹はそこまでを混乱しながらも矢継ぎ早に言った。
 「…ちょっと待て」
 芳弘が美樹の言葉をさえぎった。これは困ったときや、なにかを考えているときの芳弘のくせ。
 「なに?」
 きらきらと期待に満ちた目で芳弘を見上げる。
 芳弘は困ったように頭を二三度ポリポリとかき、
 「……とりあえず落ち着こう……。まず最初に聞くけど君誰?見たことない顔だけど下級生…だよね。どうして俺の名前知ってんの?」
 君誰?見たことない顔だけど
 罪のない一言が美樹の心臓を絞め上げた。
 「………つ…………」
 声が出ない。言いたいことはたくさんあるのに、のどの奥でたまったまま、息が言葉の隙間から細く漏れている。
 美樹は芳弘をただ見つめた。その後ろから芳弘の友達が顔を出す。美樹も知っている顔だ。
 ………よー芳弘、そのコだれ?おまえの彼女!?
 ………ばーか、違うよ。何か分かんないけど相談にきたらしいんだ。
 ………おまえなあ、そんなこと言ってっからいつまでたっても彼女できないんだよ。なあそのコけっこうかわいいじゃん。これもなんかの縁ってことで彼女にしちまえば?
 ………おいおい。あ、君、コイツの言うことなんか聞かなくていいから。それでなにかあったの?
 声がひどく遠かった。この人たち、一体誰なんだろう。
 「いえ、ごめんなさい。なんでもないんです」
 意識はどこかにいったままで、口が勝手に動いていた。
 「え、でも」
 「ほんとにたいしたことないですから。ごめんなさい。おさわがせしました。わたなべ…せんぱい」
 誰がしゃべってるんだろう。
 くるりと体が反転した。景色が勝手に後ろに流れていく。走っている感覚も何もない。なにか声がかかったみたいだったけれど何を言ってるかまでは分からなかった。
 何も分からないまま走り続けた。ただ、走った。

    −  カクン。

 かなり長い間走ったと思う。とうとう足が萎えた。どこかの家の塀に手を付いて立ち上がると膝がガクガクしている。慣れない全力疾走のせいか、それともべつの原因があるのかは分からなかった。
 なんとなくまわりを見渡してみると、全然知らない所だった。ここから帰るのはかなり骨が折れるだろう。
 美樹はくすりと笑った。
 知っている所だろうと知らない所だろうと意味なんてないのにそんなことを思わず考えた自分がおかしくて。
 なんだか世界中から捨てられた気がした。
 泣きたいはすなのに不思議と涙は出なかった。かわりにくすくすと妙な笑いが込み上げてくる。もう、自分がおかしいのか周囲がおかしいのか分からなくなってきていた。
 美樹はあてもなく歩きだした。
 まだ昼にはなってけないだろう道には不思議と人がいなくてなんだか妙な気分だった。まるで世界のなかで動いているのが自分だけのような錯覚を覚える。
 ふわふわと何の感覚もないようで重い足を引きずりながら感覚だけで歩く。遠くから聞こえる子供の笑い声が耳障りだった。どうせ捨てられるなら誰もいない所がよかった。一人じゃないのに独りなんて。
 「はは………」
 湿った笑いが口をついた。

 ずっと歩いて日が傾いて、もういくつ目かも分からない角を曲がるといきなり知っている道に出た。家から二キロくらい離れたところだ。
 美樹は立ち止まった。
 家が近いということは自分を知っているはずの人たちが多くいるということだ。もしかしたら自分を覚えている人もいるのかもしれないが、それを確かめる気力はなかった。かといってこのまま歩き続けるのにも気力が足りない。
 「…………帰ろ」
 家なら誰もいない。誰も。
 美樹は家に向かって歩き始めた。

 薄暗くなってきた道を家だけをめざして歩く。
 看板が取れかけたスーパーの角を曲がる。鉄錆の浮いた橋を渡る。家まであと三百メートル、二百メートル……。
 この角さえ曲がれば家だ。
 角を曲がり、家に着いた美樹はぴたりと立ち止まった。
 −−−誰もいないはずの家に電気がついていた。
 「え………」
 茫然とする美樹の目に一台の車が映った。
 「………父さん…。こんな時間に帰ってるなんて天変地異級の珍しさだわ………」
 珍しいこともあるもんだとうきうきしながら家の戸に手を掛けて、美樹はまたもや動けなくなった。
 −−父さんも自分を知らないというのだろうか。
 芳弘さえ自分を覚えていなかった。家にほとんどいない父さんが自分を覚えているだろうか。
 考えが頭のなかをよぎった途端、がたがたと体が震えだした。反射的に声を上げて手を引き、美樹は家とは反対方向に向かって走りだしてしまった。

 −−拒絶されるのは痛い。
 家から逃げ出しながら、美樹は気付いた。
 −−自分が誰にも分かってもらえないのは辛い。
 分かってもらう努力はひとつだってしなかったけれど。
 胸の奥が痛んだ。

 逃げて、たどり着いた先は小さな児童公園だった。
 小さい頃、母さんと父さんといっしょに遊んだ公園。
 母さんが死んで以来、近付きさえしなかった公園。
 信じられなくて。あちこちに残った思い出がつらすぎて。
 街灯の光に浮かび上がるずいぶん小さくなった遊具がなにか物悲しい。
 美樹はざらざらした半円形の小山に近付いた。一番てっぺんから短い滑り台が伸びている。横の方に細い土管がついていてそこから小山のなかに入れる。秘密基地とか言ってよく遊んでいた。
 久しぶりに土管から入ってみようとしたが、体が大きくなったせいで入ることはできなかった。仕方なく山の上に登っててっぺんのほんの少しだけ平たい場所に腰を下ろす。
 「はは……忘れられちゃったかあ………これからどーしよーかな………」
 ぽつりとつぶやいた言葉は明るい夜に広がって消えた。
 小さい頃は早く大人になりたくてしょうがなかったのになあ………。ふと思う。久しぶりにここに来たせいで感傷的になっているのかもしれなかった。
 あのころなりたかった大人ってどんなのだったっけ?
 ふいに景色が歪んだ。今まで出なかったはずの涙が目から落ちていった。美樹はしょつぱい熱い雫をぬぐうこともせず、ただ流れるにまかせて座っていた。
 しばらくして、美樹はゆっくりと仰向けに寝転んだ。熱っぽく痛くなった目で歪んだ空を見上げると、地上からの光に照らされて闇色になりきれない藍色の夜空にぼんやりと小さな星がひとつふたつ浮かんでいる。
 美樹は目を閉じた。
 星の光が閉じたまぶたの裏に残っている気がする。
 −−−ギッ…キルキリキリキリキリキリ………
 どこかから音が聞こえてくるような気がする。
 −−−キリッキシ…キィン…チリ…チリン………
 美掛はかすんだ星の光に抱かれてゆっくりと眠りに落ちていった。

     3
 薄暗い場所だった。
 背の高さくらいの壁がぼんやりと見えていた。
 もったいないおばけがなぜか浮かんでいた。
 なんだかすごくかなしそうだった。
 美樹は、どうしたのだろうと思った。
 彼が、一瞬ためらって口を開いた。
 −−………どんな気分だった?
 美樹は一瞬何を聞かれたのか分からず、黙っていた。
 −−俺は…幸せだったんだ。きらきらした目で俺を見るガキと、そいつを見て本当に幸せそうに笑う髪の長い女と。………ずっと、ずっとそんな日が続くと思ってた。
 彼の様子には茶化すことを許さない雰囲気があった。
 美樹は突然の昔話に少し面食らいながらも黙って聞いていた。
 −−…ある日さ、髪の長い女がガキを置いて出かけたんだ。ガキはさ、しばらくは一人で遊んでたんだ。だけどさ、そのうちあきてきたのかしんないけどよ、俺の方に近付いてきやがったんだ。俺はそいつの手がちょうど届かないくらいのちょっと高いところにいたんだ。そしたらさ、やめときゃいいのにそのガキ、せいいっぱい背伸びしてさ、こう、手を横に動かして俺を見付けようとしたらさ……ぎりぎり届いちまったんだよ、その手が。運が悪かったとしかいえねえな。ほんの一センチ、俺がもっと奥の方にいるかガキの背が低かったらいいことだったのによ。
 彼は本当にかすかに口元を歪めた。
 −−加減のないその手にはたかれて俺は棚から落ちた。派手な音がしたぜ。落ちてく瞬間のあの間抜け顔は忘れられねえな。打ち所が悪かったせいで俺の支柱が折れてもとに戻れなくなった。おまえはあせった。帰ってきたら絶対に怒られると思った。だから隠した。帰ってきて聞かれたら、いつのまにかなくなってた、自分は知らないと嘘をつくつもりだった。おまえは怒られるまでの時間をのばすために、帰ってきてほしくないと思っていた。そして緊張しながら帰りを待っていた。だけど………母親は…………いつまでたっても帰ってはこなかった。
 聞くともなしに聞いていた美樹だが、最後のフレーズだけに過敏なほど反応した。
 「あんたなに考えてんのよ!!もったいないおばけってのはひとの家族のことまで調べんの!?っざけんじゃないわよ!このクソバカサイテーボケナス野郎っ!!」
 叫んだ美樹に、
 −−違う。話、ちゃんと聞いてなかっただろ。俺はもったいないおばけなんかじゃねえ。
 「じゃ、なんだってーのよ!?」
 はねつけるように聞き返すと、彼は泣きそうに顔を歪めた。美樹は思わず続く言葉を飲み込んだ。
 −−忘れられてる…か。俺はテメーがなかなか好きだったんだけどな。……なあ、知ってっか?人でも物でも何でも、心の隅にも置いてもらえなくてマジで忘れられたときが本当に捨てられたときなんだってさ。
 彼は視線を合わせずに言って、ふと美樹の目を見た。
 ………瞳には、祈るような、すがるような、哀しい色が浮かんでいた。美樹がなんだかわからず見返すと、それはあきらめの色に変化した。
 −−……俺がもったいないおばけなんて名乗ったのは、俺が長い間かかってやっと自由に動けるようになった途端にテメーがジャムパンごみ箱に捨てやがったせいもあるけど、捨てられてたんだってぎりぎりまで気付きたくなかったからだよ。答えはハナっから分かってたんだ。俺を見てもおまえがなんも気付かなかった時にな。おまえがまわり中から捨てられたのは俺のちょっとした復讐だよ。わかんなきゃ何の意味もありゃしないけどな。
……俺、すてられてかなしかったよ。
 言い捨てて彼は闇の中にすうっと消えていった。
 「なっ………」
  美樹は、届かないと分かっていたが思わず、彼が消えていった闇に手をのばしていた。
 −−チリン…キン…ピイン…チリリンチレリン…
 隣から澄んだ音の旋律が流れ始めた。
 ………なんかこの曲、聞いたことある………。どこだっけ…たしかかなり前…に………。
 それは壁に見えていたものから聞こえてきている。
 どうやらこれは直方体っぽい感じらしい。近付いてみて美樹はそう思った。それの側面に回ってみる。今まで美樹からは見えなかった位置の側面から角が直角に曲がったZ型の金属の棒が出てきていてそしてゆっくり回っていた。
 ………なんかこれ見たこと……ひょっとしてこれ非常識にでっかいけどオルゴールっ!?
 「オルゴール!?」
 美樹は目を見開いた。
 これはオルゴールの台だ!見たことある!
 ここにきてやっとほとんどが耳のなかを素通りしていった彼の話がある想像のもとに形を持ち始めた。
 「まさか………」
 彼の持っていた片方の先だけが鋭く折れたようになった銀色の長い棒………。
 美樹は背伸びして台の上を見た。中央から伸びたでかい銀色の棒が途中からぶち折れているのが見えた。
 頭の中で切断面が一致した.
 「………ねえ」
 母さんが帰ってこなかった日。何が何だか分からなくて混乱してそれで隠したまま母さんの記憶と一緒に消えていったオルゴール。父さんから母さんへの初めてのプレゼントだって、母さんものすごく気に入ってた。あたしも光にきらきら光る瞳とビーズと透ける髪の色が好きだった。
 ………思い出した。たしかタンスと部屋の角の隙間に………
 美樹はバッとさっきもったいないおばけもとい、オルゴールが消えていった薄闇を振り向いた。
 「…ちょっ!あたし思い出したっ!忘れてたけど本当に忘れてはなかったよっ1あたしは捨ててない!」
 叫んだ声は薄闇に吸い取られていった。後に残ったのは少しばかりの静寂とチリンチリンと鳴り続けるオルゴールの音。ほかはない。
 いつもなら仕方ないとここであきらめていたかもしれない。けれど、それでは何も変わらないことを美樹は知っている。捨てられた経験は少しだけ美樹を変えていた。
 美樹は思い切り息を吸い込んだ。腹にカを入れて声の限り叫ぶ。
 「あたしがせっかく思い出したんだから消えてんじゃないわよっ!思い出したって事は覚えてたって事でしょ!?勝手に捨てられてるんじゃないっ!とっとと出てきなっ!?このボケナス−−−っ!!」

 「−−−っ!!」
 美樹はぴくっと勢いよく飛び起きた。
 床の上で寝ていたせいか体中が痛い。彫刻刀を探しているうちにそのまま寝てしまったみたいだ。
 「………夢?」
 夢を見た。内容はよく覚えていないけれど。
 美樹はふらりとタンスの方に歩いていった。壁との隙間に手を突っ込み、支柱の折れたふるいオルゴールを取り出した。なぜかは分からないがここにあると思ったのだ。ほこりを軽く手ではたいて窓ぎわに置く。なんだか分からないけれど笑みが込み上げてきた。分からないことだらけだったけれどなんだか悪い気はしなかった。
 ふと時計を見る。七時半をとうの昔に過ぎていた。
 「!・・・・・おくれるーっ!」
 なんだか前にも同じようなことをした気がする。これが噂のデジャブというやつだろうか。
 「うわわわわわ、ヤバイィィィィィッッ!」
 急いで制服に着替えて家を飛び出す。お腹はすごくすいていたが今日は朝ご飯抜きだ。もちろんお弁当もない。
 −−騒がしい一日がまた始まろうとしていた。

 「おはよー。よしっ、先生まだきてないねっ!」
 ガラッと教室の戸を開けた。一瞬視線が集まる。普段通り視線はまたもとの所へ戻っていく。
 美樹はジュンコの席に近付いていった。なぜか一瞬だけ躊躇してしまったが、そんなことはほんの些細なことだ。
 「はよっ。ねージュンコ、彫刻刀あった?」
 「ないないそんなもん。それよりミキってば元気そうじゃん。さては昨日はサボリだったなあ〜!?」
 「え…昨日?」
 美樹はきょとんとした。昨日は日曜日だ。サボリもなにもあるはずがない。
 「なあ〜に言ってんの!とぼけたってムダだって!」
 「ちょっ、待って。………今日…何曜日………?」
 「なに言ってんの?今日は火曜よ!あんた数学の問題当たってたからって現実逃避してるんじゃないわよ!」
 「え…ちょっなんで?」
 「ちょっと…あんたほんとにボケちゃったの?」
 「……え」

 −−チリン…
 どこかで小さな音がした。
 それは絡繰箱琴(オルゴール)の音。
 未来を弾く小さな音。
 ほら あなたのすぐそばでも

 −−チリン…