悩み多き人生に…  (作者:西荻 芹)




絶対零度の世界を作ろう。
心の中に、自分自身の中に、
絶対零度の中では、すべての
原子の動きが止まる。
そうすれば、この胸の痛みは、
消えてくれるのだろうか。
そうすれば、このいまいましい
過去という名の現実は、
私のキオクを支配することが、
なくなるのだろうか…。
「Guten Morgen(おはよう。)今日も良いお天気ですねぇ。」
「本当に、あなたをよりいっそう輝かせているようだ。」
「まぁ、毎日歯が浮きそうなセリフをありがとう。またね。」
「良い一日を。」
「Danke sehon! ありがとう。)貴方もね。」
二人にとっては、日課とも言える会話を交わして、一人の女性が、向かいの家に入っていった。
もう一人は、青年だった。もう、青年と呼べる年ではなかったのだが、どう見ても、十代後半といった感じである。この男の名前は、ブァイツェン・ブッシュ。ブラウマイスター(品質にこだわるビール醸造職人)がマスターをしているバーで働いている。
 ブッシュは、空を見上げた。夏が近いせいか、まだ八時だというのにけっこう日が高い。雲がほとんどない青空に市場の活気ある雰囲気が溶け込んで、実に爽やかな朝である。
「おい、まだ掃除しているのか。」
というマスターの声が店の中から聞こえたので、ブッシュは、集めたゴミを取り店の中に、入っていった。

 昼時前、常連客が数人、マスターと談笑しながら酒
を飲んでいる。そこに、これもまた常連の二十歳すぎ
の男が入ってきた。
「みんなー、すごいこと聞いてきたよ。」
「あぁ、ヘンニガーか。今度は何があったんだ。ったく、人がせっかく…。」
ほろ酔い気分を壊されて、一人の客が、ボソボソと言った。
 すると、ヘンニガーは、さも得意げに話し始めた。
「あのさあ、一昨日大統領になったヤツいたでしょ。
 名前は、確か…カ…違う、夕…うーん。」
「アルトビア・シュルトハイス。」
「そう、それ。そいつが昨日、殺されたんだって。」
「はぁー?」
誰とも分からない間抜けな声が店内に響く。
「一昨日着任して、昨日殺されたということは、大統領歴一日ですか、それはそれですごいですけど、どうして、殺されたのです?私の記憶が正しければ、彼は、人徳のおかげで、SPを普通より多くつけている、と聞いたはずだけど。」
「ブッシュ、そりゃ狙われてたってことじやないのか.どうなんだ、ヘンニガー。」
「それがね、殺したのシュルトハイスの秘書らしいんだ。名前は、ゼスター・ケルシュっていって、五年ぐらい前に、イタリアから亡命してきたところをシュトハイスに拾われたって話だよ。んで、ケルシュはただ今独房の中、自殺に見せかけて殺したのに、自首したんだって。」
「殺したはいいが、やっぱり恐くなって…とかいうやつか。」
「そこまでは知らないけど、今、記憶が混乱しちゃってやばいんだって。」
「そんな状態だとすると、今夜あたりかもしれませんね。」
深く何かを考え込みながらブッシュがポソッと呟いた。
「ん、どうかしたのか?」
「いえ、なんでも…。」

 日も暮れて、店内がひときわ賑やかになってきたところで、交代の人が来たので、プッシュは、店の裏の建物に入っていった。住み込みで働く人用の部屋は、すべてこの建物の中にあるのだ。キッチンで、軽い夜食を作ってとり、自室へ入った。そして、仕事用のバーテンの服から、薄手の黒い長袖とベージュのズボンに着替えた。
一時間ほどたつと、どこからともなく男の呻き声が、聞こえてきた。
「やれやれ、やはりですか。」
溜め息交じりにブッシュが言った。そして、机の引き出しから箱を取り出した。その箱の中には、いかにも怪しげな本とカードが入っていた。ブッシュは、それを取り出し、箱を元の引き出しにしまった。
 ブッシュは、カードを持ち、本を開いて、その中の何かを唱え始めた。
「試みに呼んでみよ。誰かあなたに答えるものがあるか。わたしは愚かな者の根を張るのを見た。
 苦しみは、ちりから起るものでなく、
 悩みは、土から生じるものではない。
 人が生まれて悩みを受けるのは
 火の子が上に飛ぶにひとしい。
 見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、
 あなたの道を整えさせるであろう.」
そう言い終わった瞬間、ブッシュは闇にのみ込まれた。

 闇に目が慣れると、そこには、一人の男がいた。その男こそゼスター・ケルシュその人だった。
 ゼスターは、大統領の秘書にしては若く、二十代前半といった感じだ。四十過ぎのおやじばかりが大統領を務めるこの時代に、二十代後半という若さで、大統領になったシュルトハイスと同様、並外れた才能の持ち主であるということなのだろう。
 ゼスターは、ブッシュに気づいているのかいないのか。生気の抜けた顔で何もない独房の隅を眺めていた。
 ブッシュには、まだゼスターの悲愴めいた声が聞こえていたが、独房の中は、静寂に満ちていた。ゼスターの深層意識というものが、ブッシュの頭の中に直接届いているのだろう。
 この静寂を破ったのは、ブッシュである。
「わたしの睡眠を妨害するのは止めてもらえませんか。」
ゼスターは、うつろな目のままで、ブッシュを見た。
「あ…なたは…。」
ここに入ってからずっとしゃべっていなかったのだろう。ゼスターは、かすれた小さな声で答えた。
「私は、ブアイツェン・ブッシュと申します。あぁ、話し声が外に漏れるといけないので、この部屋に術をかけさせてもらいました。」
「…あなたはどうしてこんなところに…。」
「あなたのせいですよ。」
「私…?」
どうやってここに来たのかを問おうとしたゼスターは、思ってもみなかった答えに戸惑った。まだ、頭にもやがかかったような感じなのだろう。
「あなたがそんなふうに…いえ、あなたの悩める心に同調して私も寝るに寝れず、あなたの悩みが少しでもまぎれれば…と、参りました。」
ブッシュはあくまで淡々と話す。
「……。」
ゼスターの目に、戸惑いの色が現れた。思考もはっきりしてきたようである。
「もしよろしければ、あなたがなぜあのようなことをなさったのか、聞かせてもらえませんか。」
「私がしたことをご存じなのですか。」
「はい。」
「そうですか。」
「シュルトハイスは確か、亡命してきたあなたを助けてくれたのでしょう。なのに、なぜ。」
「シュルトハイス様は、優しすぎるほど優しい人でした。そう、残酷なほどまでに、私が亡命してきたことは、ご存知でしょう。」
「ええ。」
「私の父も政治家でした。あなたは、アルヒェンドルフというイタリアの政治家を知っていますか。」
「あの暗殺されたという方ですか。」
「はい。それが私の父です。父は、とても冷酷な人で、家ではもちろん、財界でも無茶をしていました。その結果、暗殺されました。母は、そのショックで、寝たきりとなってしまったので、向こうの重税が払えなくなり、ここに移ってきたのです。そして、シュルトハイス様に出会いました。シュルトハイス様は、本当良くして下さいました。」
ゼスターが話している間、ブッシュは黙って話しに耳を傾けていた。
「父にも優しくなどしてもらった覚えのない私にとって、シュルトハイス様のご厚意はとてもうれしかったです。でもそのうち、何故か正反対の父とシュルトハイス様が重なり、シュルトハイス様が何かして下さるたび、胸が苦しくなりました。そして、気づいた時にはもう、薬を使って殺していました。今では本当に後悔しています。」
「そうだったのですか…。」
いつのまにか、ブッシュに聞こえていた声は、聞こえなくなっていた。
「大分落ち着かれたようですし、私は、そろそろ行かなければなりません。最後にこれを渡しておきましょう。あなたがもう二度と、同じ過ちを繰り返さないように…。」
ブッシュは、そう言うと、持ってきたカードを左手の上にのせ、本を開き、呪文を唱えた。そして、カード自分のほうが表になるように広げ、ゼスターに言った。
「さあ、一枚選んで下さい。」
ゼスターがカードを抜いた。それと同時に、ブッシュは、「では…。」と告げ、溶けるように、消えていった。
 残されたカードには、ゼスターの生まれ故郷である、フュッセンの町並みが描かれていた。

 「ふぅ−−−−。これでやっと寝られますね。」
 ブッシュは、残りのカードと本をしまうと、そのまま深い眠りについた……。