叶 (作者:怪人S)
一人の僧が歩いている。
雲水であるらしい。
まだ、若い。
「坊様」
僧は笠を上げて辺りを見渡した。
誰もいない。
−−−空耳か。
視線を元に戻して、僧は思わず息を飲んだ。
女童が立っていた。
朱の着物は半分闇に溶け込んでいる。
皓い顔と皓い四肢だけが浮き上がって見えた。
−−−闇に紛れて見落としたか。
「坊様、夜旅でこの峠は越えられんよ」
−−−何故、こんな時分に女童がいるのか。
つい、と女童の指が動く。
「この先に破れ寺があるぞ。人がおらんようになって久しいで荒れ放題じゃが、雨露は凌げようわ」
「ご親切痛み入る」
丁寧に頭を下げた僧が再び頭を上げたとき、女童の姿はすでにない。
「あやかしやら何ぞが出るかもしれん。食われてしまわんようになぁ」
後には、ただ声が残った。
−−−あれこそあやかしであったのか。
僧は女童の指し示した方角に歩き始める。
後には、ただ足音と錫杖の音が残った。
霧が深い。
衣が水を吸い、歩く度に重くなる。
ふと、視界の端に朱色を捕らえ、足を止める。
女童が立っていた。
「昨夜はかたじけない」
昨夜もここで、この女童に会ったのだ。
「この霧で峠に入ってはいかんよ。あの辺は野犬も出るんじゃ」
夜明け前から出始めた霧は晴れるどころか、その濃さを増している。最早、女童の姿を捕らえることすら危うい。
−−−あの廃寺でもう一泊することになるか。
つい、と女童の指が動く。
「今、村は祭りをやっとるんじや。
市も立っとる.坊様も見に来るとええ」
霧の中にうっすらと色とりどりの幟(のぼり)が見える。
視線を元に戻すと、女童の姿はすでにない。
ただ微かに、霧に紛れた朱が見える。
呼び止めようとして、名も知らぬことに気付く。
「−−−名は?」
「かなゑ」
後には、ただ己のみが取り残された。
月が皓々と照っている。
霧はいつの間にか消えていた。
僧は祭りを少し離れた所から眺めやっていた。
−−−かなゑか。
群衆から外れた所に独り立つ女童を見つけた。
−−−何を見ているのか。
風車だ。
種々のそれを箱に挿して背負う風車売りを見ている。
僧は歩み寄って、風車売りを呼び止めた。
風車売りは怪訝な顔をした。
「宿を教えてくれた礼だ」
差し出された朱い風車に女童は目を丸くした。
そして、笑う。
「坊様がこんなもん買うてくれたんか」
僧は微笑した。
「私は僧ではないのだよ」
女童は首を傾げる。
袈裟をまとい、手には錫杖と鉄鉢。
この者の衣装は僧のそれであった。
「いずれの寺にも属しておらぬ。
上の許しも得ておらぬ。
己で決めて、己で髪を下ろしたのだ」
何故か、と女童は目で闘うた。
「−−−世と縁を断ちたかった」
僧、否、僧の姿をした男は傍らの石に腰を掛けた。
「私には、寺という組織すら煩わしかったのだ」
女童も真似て隣に腰を下ろす。
「なら、何でそんな格好しとるんじゃ?」
「世間の雑事からは離れたい。かと言って、山などに籠もりたくはなし−−−」
何故か、と女童は目で問うた。
「淋しいからさ」
女童は一瞬の間を置いて、そうだな、と言った。
「世捨ての旅人ならば行脚僧が相応しかろう、と、な」
生来器用で、僧の真似事くらいは出来る。
世の中には経すらろくに上げられぬ僧もいるのであるから、信心が薄くとも、この男の方が余程僧らしい。
「−−−何で、世を捨てたいと思うた?」
女童の問いに、男は暫く思案した後、口を開いた。
「私は−−−武士だった」
身分は高いわけでも低いわけでもなかった。
有能なわけでも無能なわけでもなかった。
「世の変遷から取り残されて、飄々と生きてみたい」
口癖のようにこう呟いていた。
世に不満があるわけではなかった。
ただ、己の在る場所はここではないと感じていた。
それでも、出家や自殺を考えたことはなかった。後に残される者のことを思えば、それが最良の道だとは思わなかった。
近しい人はいつも、この男が武士として現世に生まれたことを嘆いてくれた。
己の在る場所はここではないのかもしれないが、近しい人の側に在ることは正しいと思った。
−−−だから、現世で有るが儘に生きようとしたのに。
ある日突然、平穏を奪われた。
−−−独りで生きていくには、私はあまりに弱い。
「枕源郷が在ればよいのにな」
「とうげんぎょう?」
「唐土の書物にある仙郷のことだ」
ある漁夫が谷川を逆上るうち桃林に迷い込み、更に洞穴を抜けると、そこは人々が平和に暮らす別天地であったという。
「世の変遷から取り残されて、飄々と生きてみたい」
男は一呼吸置いて呟いた。
「仙人のように」
遠くで賑やかな声がする。
男と女童は耳を澄ます。
「なれば良かろう」
唐突に女童が言った。
男は驚いた様に女童の目を見た。
「坊様は仙人には成れんのか?」
「さあ−−−、否、一人おったな」
僧があった。この僧、比叡山にありながら、道教に傾倒してしまった。つまり、仙人に成りたくなうたのだった。思い高じて、遂には山を下り、修行の末に仙人に成ったという。
「その僧に出来たんじゃ。妨様に出来んはずはないわいなぁ」
女童は立ち上がって、走り出した。
風車が回る。
「そしたら」
「そしたら?」
風車を夜風に任せて、女童は振り返った。
「かなゑが−−−」
女童が笑う。
「桃源郷を探してやろう」
男は驚いた様に女童の目を見た。
「かなゑが?」
「かなゑが」
風車がからからと音を立てて回っている。
「かなゑが探しておいてやるで、坊様は仙人に成ってから来たらええ」
「−−−そうか」
「そうだ」
不意に、男は泣きたくなった。
「−−−ああ、祭りが終わる」
大きな篝火が朱い光で辺りを照らす。
「かなゑは、もう行かなきゃならん」
女童の姿はその朱に溶け込んでいく。
「坊様、桃源郷で待っとるよ」
女童の姿はその朱に溶け込んでいく。
男は身動ぎ(みじろぎ)せずに、それを見ていた。
後には、ただ祭囃子が遠くで響いていた。
「申し、御坊様」
三度目に峠に差し掛ろうとした時、呼び止められた。
以前の二回とは異なる声であった。
「供養を、お願い出来ませんでしょうか」
村の娘が明け方、死んだのだという。
「哀れな娘でしてなあ」
幼い頃に親を亡くし、遠い町に売られたが、病にかかり、帰されて来たのだという。
大八車に乗せられ、筵を掛けられた遺体が村の墓地へと運ばれて行く。
筵からはみ出した腕が見えた。
痩せ細った皓い腕が、朱い風車を握っている。
「この娘は−−−」
名を問いかけて、止めた。
村人たちが去った後、男は独り立ち尽くしていた。
不思議と涙は出てこなかった。
懐から、朱い風車を取り出した。
真新しい卒塔婆の前にそれを挿す。
男は峠ではなく、来た道を戻り始めた。
妻の墓を、訪れてみたくなった。
後には、ただ風車がからからと回っていた。
かつて男には、妻があった。
「世の変遷から取り残されて、飄々と生きてみたい」
男がそう言う度に、共に嘆じてくれた。
「御前様は俗世に適(そぐ)わぬ御方でございます」
ある日、妻が言った。
「仙人にお成りになれはよろしゅうございましょう」
驚いた様に自分を見る男に、妻は笑い掛けた。
「私が、御前様を仙郷に誘(いざな)って差し上げます」
遥か後、ある杣人(そまびと)が霧深い山奥で、雲を伝い天へ昇る老人を見たという。
終