Free Time
                夢追人
 「あ−あ。つまんないの」
と、由紀はため息混じりに言った。今日だけでこのセリフは三十回以上唱えている。
 この五カ月の間、彼女はヒマさえあれば、こうつぷやいていた。いすの背もたれに全体重をあずけるようにして、彼女は天井をながめていた。机の上には数学の教科書とノート、参考書が広げてある。…が、ノートにはたった2問しか解かれていない。彼女が母親に小首を言われ、机に向かってから、ゆうに2時間半がたとうとしているにもかかわらず。
 ふいに由紀は体を起こした。あっという間に机の上を片付けてしまう。
「や−めた。あの続き書こっと」
と言って取り出したのは別のノートだった。ページを開くとそこには、いろんな大きさにコマ割りされた中に、キャラクターや風景が飛び交っている。
 つまりこのノートにはマンガが描かれているのだ。由紀はこれを描いている時だけが事せだった。
「ええと、次はどうするんだったっけ…あ、そっか。セトに追手が差し向けられるんだ」
 『セト』というのは、彼女の描くマンガの主人公。人の手によってゆがめられた時間を修正するという大役を担う神の使者だ。そのため、任意の時と場所へと移動する、または他人や物を送り込む『時空魔法』を使うことができる。…というのが彼の設定。今描いているのは中世ヨーロツパ。政略結婚を強いられた姫を嫁いだ国の城から相思相愛の伸にある騎士の元へ送ったところを兵士に見つかり追われる場面だ。
 由紀は鼻唄混じりで次々と下絵を描いていった。あっという間に描き終わり、さてペン入れしようと彼女が再び気合いを入れ直した瞬間、
「由紀、夕飯よ」
母が呼んだ。由紀は不満そうな顔をしながらも、都屋から出た。
 これは夕食時の母と娘の会話である。
母‥「あんた最近成績下がっているじやない。ちゃんと勉強してるの?
娘‥「してるわよ」
母‥「本当?」
娘‥「ホントだって」
母‥「いったいどんな勉強したらあんな点とれるのよ」

娘‥「しつこいわね、ちやんとしてるわよ!」
母‥「しつこいとは何よ」
娘‥「ごちそうさま」
母‥「待ちなさい、由紀!」
この後娘は部屋のかぎをかけ、閉じこもる。

 由紀は部屋にこもるとマンガのペン入れを始めた。あんな言われ方をした後で勉強する気にはなれなかった。夢中でペン入れを進める。だが、いらだっているせいかうまく描けない。何度も何度も手直しし、トーンをはり終わったころには午前2時を過ぎていた。彼女は服を着替えることもせず、ベッドに潜りこんだ。

 次の日、顔にあたる朝日で由紀は目を覚ました。
「ん〜。もう朝?…今何時?・・・!」
 彼女はあわてて飛び起きた。時計をもう一度、今見たのが間違いであることを祈りながら見た。
「やっぱり7時35分だあ!(涙)電車に間に合わなくなっちゃう!」
 由紀はおおあわてで着替え、かばんに荷物を押し込むと、朝食もとらずに家を飛び出した。

 学校が終わると、由紀は家へと急いだ。早くあの続きを描きたかったからだ。
 あの続きはどうしよう…ここはこうするといいかな?…それでここは…と、自分の世界に浸りながら道を歩き、家の玄関の前に立ち、ドアを開けると……!
「ただいま…わっ!」
「お帰り、由紀。」
 彼女がおどろくのも無理はない(多分)。目の前にいつもはいないはずの母が立っていたのだから。
「ちょっとこっちに来なさい。」
母親はそう言うとまだくつも脱いでいない由紀の腕をつかんで、部屋へとひきずるようにして連れていった。

 由妃は泣いていた。友を失った孤独と、母親の横暴への怒りに泣いた。
 事のあらましはこうである。
 母親は由紀を部屋に連れ込むなり、1冊のノートを見せた。

 「これ一体何?」
由紀が言い訳をすると(ご想像がつくと思うが)母親はのべつく間もなしにわめき始め、最後には由紀をはり倒し、ノートを持って部屋から出ていった。それから十分程がたって、今の状態に至るわけである。
 またしばらくして由紀はのろのろと立ち上がった。机の上に散らかる道具一式を片付けようと引き出しを開けた・・・が、
「わあっ!」
怒りにまかせて思い切り引いたので、引きだしは外れ、由紀はしりもちをついてしまった。入れておいた中身も周りに散らばっている。小さなため息をつき、さて仕方ないから片付けようかと立ち上がろうとした時
「あ、これ…」
 由紀の目に止まったのは、一枚の紙きれ。拾い上げてみる。そこには彼女の描いていたマンガの設定資料があった。セトも描かれている。でもそれはまだ下描き。無駄な線が消えやすい黒鉛の色を残している。
 そこで由紀は、この絵にペン入れを始めた。一人でも自分の描いたセトが手元にあったことがうれしかったのだ。
 ペン入れを終えた由紀はトーンをはろうと思い、(トーンだけはいつも机にしまうようにしている)引きだしに手をかけ…ようとした。そこで彼女は今さっき自分が引き出しの中身を全部ばらまいたままにしていたことを思いだし、いすから降りた。ばらけた物を全部拾い集め、引き出しに入れ、引き出しを机にもどす。
 トーンをはり終えた後、由紀は道具を全て片付けた。天井を見上げてつぶやく。
「自由になりたいな…」

 その夜のこと….
 由紀は自分の名を呼ぷ声と、体を揺さぷる手に起こされた。
「なぁにー?もう朝ー?」
寝ボケまなこをこすりながら由紀は起きた。そして…。
「うそ…どうして?」
「呼んだじやない。僕のコト」
 セトは事もなげに言った。
「いつ、あんたなんか呼んだのよ」
「君、言ってたじやない。『自由になりたい』って」
由紀はおどろいた。…あれ、聞いてたんだ。
「だから、君を自由にしてあげようと思うんだけど…」
「何?何かあるの?」
「君の言う『自由』ってどういう状態なのか知らないと僕の方もちょっと困るから、どんな状態なのか教えてくれるかな?」
「誰にも何も言われないで、自分の好きな事ができる状態」
由紀は即答した。
「なるほどね。じや、明日の午後6時から、君は『自由』だから」
「今すぐじゃないの?」
「今日は『使えない日』だからね」
「そんな日あるの?」
「君が描いたんだよ」
「あ、そっか。忘れてたな…」
由紀は苦笑した。
「あと、もし僕に用があるなら、ケータイでも公衆電話でもいいから電話のプッシュボタンを『100010』って押して。すぐ行くから。じや、お休み」
「お休み、セト」
 由紀がそう言うと、セトはにっこり微笑み、揺らめきながら消えた。


 翌日、由紀が帰ってくると、母の姿がなかった。代わりに留守番電話にメッセージがあった。
「由紀、母さんは急な出張が入ったので、三日間留守にします。今日の夕ご飯は買ってきてあるからそれを食べて下さい」
ラッキー、母さんがいるとどうも落ち着かないのよね。由紀はそう思った。


 それから由紀は取り上げられたノートを捜し出すと続きを描いていった。続きを描いていった。おもしろいようにスイスイ描け、二日後には全てのストーリーを完結させていた。
 三日目、多少の手直しを加えて完成。
「で−きたっ!」
時計を見るとまだ昼過ぎ。さてこれからどうしようかなと考えてみる。
「そういえばみんな読みたいって言ってたっけ。見せに行こう!」

今日は日曜皆いるはずだ。
 そこで由紀は仲の良い友達の家に自分の描きたいマンガを見せに行った。
 玄関チャイムを鳴らし、ドアを開けるとその友達は不思議そうな顔をしていた。
「こんにちは!前に言ってたやつ、見せに来たよ!」
「あなた誰ですか?」
 予期せぬ答えが返ってきた。
「誰って由紀よ。クラスメートの」
「…知りません。持って下さい」
 そう言うと友達は思いきりドアを引き、由紀を締め出した。由紀はそのまま立ち尽くした。


 由紀は家への道をとぼとぼと歩いていた。なぜ友達はあんな態度をとったのか、役女には分からなかった。全くけんかをしなかったと言えばウソになるが、その後ではすぐ仲直りできる友達だった。そんな子がどうして…。
 家の前まで来た。部屋に灯りがついている。母さんが帰ってきたのだろう。
 「ただいまー」
言いながら由紀はドアを開けた。母がやってくる。
「ただいま」
「誰よ。何でこの家に入ってきたの?」
母は友達と同じ態度をとった。
「誰…って母さんの娘の由紀じゃない!忘れたの!?」
「私に娘なんていないわよ。変な事言ってると警察呼ぶよ!」
そう言ってにらみつけてくる。警察を呼ばれてはかなわない。由紀は逃げるようにして出ていった。


 おかしい。何かがおかしい。由紀は思った。どうしてみんな私を知らないのだろう。
 由紀は行くあてもないまま町をうろついた。コンビニの前まで来て座り込む。ぼんやりしていた彼女の目にふと公衆電話が映った。
その瞬間、由紀はセトの言っていた、『呼び出す方法』を思いだし、十円玉を持っていないかと探ると幸運にもポケットの中に一つだけ見つかった。それを使って彼女は電話をかける。
 1、0、0、0、1、0、


 気が付くと由紀は石の床(恐らく大理石)の上に立っていた。自分と床以外は見えず、ただ黒かった。
 「呼んだかい?」
背後の声の主はまぎれもないセトだった。由紀は向き直るとセトに向かって尋ねた。
「どおしてみんな私の事を知らないって言うの?私こんな事頼んでない」
「確かに君はその事を願ってはいなかった。だけど君の願いを叶えるにはこれは必要な事だったんだよ」
 由紀はよく分からないといった表情になった。セトは続けた。
「君の言っていたのは『誰にも何も言われない』だったね。言い換えればそれは『誰にも気にされない』という事になる。そして、そうするためには、周囲の人間と君が赤の他人である事が条件になるんだ。分かったかい?」
 由紀はうなずいた。
「どうする?今なら願いをとり消せるよ」
「うん、取り消して」
由紀は迷わず答えた。セトはうなずくと、左手を振った。
 由紀は自分の部屋の自分のいすにこしかけていた。机上にはあのセトの絵があった。が、その絵は由紀の描いた覚えのない表情…笑顔であった。