THE OTHER WORLD
 久玲 緋伽


「・・・・・恐ろしい」
 薄暗い部屋に低い声が響いた。外は暖かい日が照っているが、動物の皮で作られたテントの中に光はあまり射してこない。
「お前も見るかい、ルーヤ」
 そう低い声の持ち主は後ろに控えていた者に声を掛けた。
この二人の容姿ははっきり分からない。容姿だけでなく、男なのか、女なのかも、年齢すら見分けることが出来ない。なにも部屋が暗いからだけではない。彼らは全身を黒い布で覆っている。顔すら見ることが出来ない。帯や装飾部は紅や青の飾り物がついていて動くたびにしゃぁらり、と鳴るが、二人を見分ける方法は声ぐらいしかない。
「また、あちらの世界ですか?」
 後ろに控えていた者は柔らかい口調で歩み寄る。その先には、大きな水面鏡が木製のテーブルの上にある。
「そうだよ。恐ろしいね、向こうの世界は。ほら、見てごらんよ。ルーヤ」
 低い声の持ち主は、ルーヤと呼ばれた者の腕をくいっと軽く引っ張った。
「我らの同胞がこのような恐ろしい目にあっているのを放っておくのはいい加減、我慢できないよ」
 低く、そして心地よい声の裏には、何やらちらちらと燃える怒りの色が見える。「では、どうなさいますか、リウ様」
 ルーヤは水面鏡をちらっと見てから主の顔を見上げた。
「そうだね、どうしようかな」
 黒い布に隠された形の良い唇が、にやりと歪んだ。
「どちらにせよ、こっちの『白人狩り』が終わらないことには、向こうの世界には手を出さない方がいいからね。どっちつかずになるのも嫌だしね」
 リウは水面鏡に視線を落とした。左手をその上にかざす。
「『止』」
 リウがつぶやくと、水面鏡に少し波が立ち、映っていた映像が消えた。
 袖から出ているリウの左手の甲は鼈甲色。爪は全て黒く染められていた。
「我らの同胞には、もうしばらく辛抱してもらおう」
 リウはくるり、と水面鏡に背を向け、テントの出口に歩み寄る。ルーヤは主について歩き、皮でできた出口をぺろん、とめくった。
「では、早く『白人狩り』を終わらせた方がよろしいですね」
 リウはめくられた出口を出て、満足そうに頷いて、空を見上げた。
「そうだね」
 太陽の光を反射して、リウの瞳が黒い布の奥で不気味に紅く光った。

 ・・・・・・・アフリカ・南アフリカ共和国・首都ケープタウン。
一人の少年が崩れかけの壁にせをもたれさせた。先ほどまで全力疾走していたのであろう、かなり息が荒い。それでも少年は薄汚れた細い手をあっちこっち破れてよれよれのズボンのポケットにそっと突っ込んだ。
「へへへ」
 そぉっとポケットから小さな缶詰を取り出した。誇らしげに笑う。さっき市場からかっぱらってきたのだ。
「しっかしあの親父、今日はしつこかったなぁ」
 きゅっ、きゅっ、とぼろぼろの上着で少年は缶詰を磨いて、太陽にかざす。
 缶詰の側面が反射してきらり、と光った。
「っつたく、缶詰の一個や二個くらい別にいいじゃん」
 眩しくて少年は片目をつむった。息もだいぶ落ち着いたので、少年は帰ることにした。
「帰るったって、俺の家なんかないけどさ」
 でも、彼には弟がいる。まだ幼く、大きなくぼんだ瞳を虚ろにぎょろぎょろさせる、弟が。
 生まれて一度もいっぱいに満たされたことのないおなかがまんまるに腫れて、起き上がることも出来ない.全身には蝿がたかっている。
「早く帰ってやらないとな」
 大切そうに彼は缶詰をポケットにしまった。
 この少年だって手足はがりがりで、背中やおなかは浮き出た骨で角ばっている。それでもせっせと食料を人から恵んでもらったり、市場かち盗んだりして、弟に分けている。
 少年は黒人居住区に向かって歩き出した。
 少年の家は、南アフリカ共和国より北にある、小さな農村にあった。内戦に巻き込まれ、家は焼け、両親は殺された。手にまめを作りながら耕した大事な畑は踏み荒らされ、せっかく出た芽はぐちやぐちヤに踏みにじまれた。少年は幼い弟を背負ってここまで命からがら逃げてきたのだ。
 逃げてきた時、少年はどうしたらよいのか、全く分からなかった。住む家もなければ、食べ物もない。もう自分を守ってくれる暖かい存在も、ないのだ。少年は空腹に堪えかねて、食べ物のにおいのする市場にふらふらと引き寄せられていた。しかし、お金がない
ので買うことは出来ない。すると、視界に自分とよく似た少年が果物を屋台からさっとかすめるのが映った。その少年はきょろ、と周りを見回すと、走っていってしま った。
 彼は目を丸めたが、すぐにああそうか、と思った。俺もこうすればいいんだ、と。
 少年が黒人居住区に入りかけたその時だった。一人の白人の女の子と目があったのだ。彼の胸が少しちくっと痛くなった。しかし、その少女は彼の目を見てにっこりと笑ったのだ。少年はびっくりしてどう対処していいのか分からなくなる。今まではいつもいつも白人は自分たちを侮蔑の色で見ていた。汚らわしいケダモノを見るような目で見ていた。少年はその度に、小さな心に傷をつけられていたのだ。
 …………………………のに…
 少年は戸惑い、ふっと視線をそらした。でも、少女の事が気になり、またちらっと視線をもどしてみる。
 少年は更にぎょっとした。少女が自分に歩み寄ってきているのだから。
「私、グラディスっていうの。あなたのお名前は?」
 少女は無邪気に笑う。少年の頭はますます混乱した。
「え…?俺の名前?」
「そう。あなたのお名前」
 少女はこっくりと頷く。
「ベーブ。ベーブ・ジャキソン…だよ」
 少年は一瞬、自分の名前が出なかった。ケープタウンに来てから一度も名前を使ったことがないのにも気がついた。常に彼は『この薄汚いクソガキ』か、『貧しい黒人』と呼ばれていた。誰も自分の名前なんか気にしないし、自分自身名前なんかにかまっていられなかった。
 少年、ベーブは不思議そうに少女を見た。グラディスは相変わらず無邪気に笑っている。
「じゃあベーブ。私と一緒に遊ぼ?」
「はっ?」
 ベーブは思わず聞き返した。
……………………一緒に遊ぶ?俺が?あんたと?
「だからね、私と一緒に遊ぼ?」
 グラディスはもう一度繰り返した。
「遊ぶって…」
 どうやって?ベーブは言い掛けた言葉をぐっと飲みこんだ。考えて見れは自分は生まれて一度も『遊ぶ』ということをしたことがない。畑仕事や家の雑用、作物を市場に売りに行く・・・。他の子供達が笑いながら駆け回っているのを見て、ああいいな、俺も遊びたいな、と思ったことなら数えきれないほどある。かと言って『遊ぶ』ことが具体的にどういうことなのかと尋ねられたら答えられない。
「だめだよ」
 ベーブは仕方なくこう答えた。
「遊べない」
「どうして?」
 グラディスの笑い顔がたちまち崩れた。首をかしげて不満そうにベーブを見上げる。
「どうしてって…」
 ベーブは返事につまった。本当は遊んでみたい。でも、グラディスといざ遊ぶとなった時、戸惑うのは嫌だった。きっと、やっぱり黒人なんだ、生きるだけで精一杯で遊んだことなんてない、かわいそうな奴らなんだと思われるに違いなかった。ベーブはそう思った時、たまらなくグラディスが憎らしくなった。
 ………………こいつは俺と同じくらいの年のくせして、遊んだことがあるんだ。…違う。遊んだことがあるんじゃなくて、働いたことがないんだ。
 かっとベーブの頬が赤くなった。悔しくてたまらない気持ちが全身を駆け巡った。
 ………………たかが、肌が白いくらいで!
「そんなこと、お前には関係ないだろう?」
 ベーブはきっとグラディスをにらみつけた。グラディスの目がびくっと怯えた。ベーブはふっと目をそらして叫んだ。
「白人なんかに…!」
 ベーブはだっと走り出した。黒人居住区に入る。グラディスの目に涙が溢れていたような気もしたが、そんな事はどうでもよかった。ベーブははたっと止まった。どうしてか、彼の目に涙が溢れていた。ベーブは呆然と突っ立った。
 ………………どうして涙なんかが出るんだ?
 家が焼けた時も、両親が死んだときも涙は出なかったのに…。涙よりも、これからどうするかという不安が溢れていた。…なのに。生暖かい液体はぼろぼろと目からこぼれて、頬をつたい、乾いた地面にしみをつくる。
「ふんっ」
 ベーブはすりキズだらけの腕で乱暴に涙をぬぐつた。そして弟のいる裏路に向かって走り出す。
            *
「ルーヤ殿。リウ様の御機嫌はいかがかな」
 馬に乗って周囲を散策していたルーヤに背後かち声がかかる。声をかけた方もやはりルーヤやリウと同じく、全身黒づくめで手綱を握る手は黒い。
「さぁ…。私からは何とも…。知りたければご自分でお会いになってはいかがですか?ホウオ殿」
 ルーヤは後ろを振り返る。そして群やかな飾り帯から黒い棒のようなものを取り出した。
 しゅっと前に振ると、その先端がゴムのように伸びて馬に乗ったホウオの背後にある茂みに突っ込んだ。
「ぐぅっ」
 ルーワというその武器に首を締められたのか、茂みから呻き声が漏れた。
「さっきからそこにいるのは分かっていたのですよ」
 ルーヤはぐっとルーワを引っ張った。
 がさっと乱暴な音がして肌の白い青年が茂みからはじき出された。
 しゅるっとルーワの先端が縮んでルーヤの元に帰る。
「まだ生き残りがいたのですね。なかなかしぶといこと。この調子ではまだまだ白人は生きていそうですね、どこかで」
 ルーヤは馬の上から青年を見下ろした。青年はその視線の冷たさに背筋がぞっとした。だっと駆け出した。
「逃がしませんよ」
 ルーヤはしゅっとルーワを操り、ルーワの先端は背後から青年の太ももを容赦なく貫いた。
「うわぁぁぁぁっ」
 青年は地面に倒れ、自分の左足をかばい、涙でぎらぎらした瞳をルーヤに向ける。その怒りと恐怖の入り混じった視線をルーヤとホウオは軽く鼻で笑った。
「ご安心なさい。多分、殺しはしませんよ。あなたには二、三聞きたいことがありますしね」
 ルーヤはそのままルーワを青年の体に巻き付けた。そして馬を走らせて乱暴に引きずった。左足に傷を負い、まともに歩くことさえ出来ない青年はそのままずりずりと全身を地面に引きずらせるより他にない。
「しかし、さすがはルーヤ殿。リウ様の奥方になられるだけあってルーワの扱いもお上手だ」
 ルーヤにやや遅れて馬を走らせるホウオはほこりまみれになった青年に冷ややかな目でちらっと見て言った。
「リウ様は今、あちらの世界の事を大変気になさっています。この男にいろいろと白人についての情報を聞いて、さっさと奴等を始末いたしましょう、ホウオ殿」
 ルーヤはそう言って、黒い布の下ですっと目を細める。
 先ほど見た水面鏡に映っていたものを思い出したのだ。白人を見る度にむらむらと鏡で見たものが胸のうちに沸き上がってくる。自分たちと同じ肌の黒い者が飢えて死んでゆく姿を。
 くっとルーヤは赤い唇をかんで、馬の尻にムチをいれた。

「そう・・・。白人たちのアジトはそこにあるのだね。ご苦労だったね、ルーヤ」
 テントで相変わらず水面鏡を見ていたリウが報告をしに一来たルーヤをねぎらった。
「…で、その裏切り者の男の方はどうしたんだい?」
「おしゃベりは二度と口を聞けぬようにいたしました、リウ様」
 ルーヤはちらっとテントの外を見た。その向こうの草むらの中に、左足太ももに傷跡のある男の死体が転がっている。
 ルーワをちらちらと見せ付けられて、『情報を漏らせば命だけは助けてやろう』と言われて仲間を裏切った男の。
「ナルキを確かめに行かせたところ、確かに見張りらしき白人がト数人立っていたそうです」
「なるほどね。お前は賢いね、ルーヤ。場所をきちんと確かめさせてから殺すのだね」
 リウはくすり、と笑った。
「…味方をかばって嘘を言う者もいますので…。もしも、あの男もそうしていれば殺すつもりはありませんでしたが」
 ルーヤはリウの顔をゆっくりと見た。リウは意外そうに声を上げた。
「へぇ。どうしてかな」
「自らの命惜しさに味方を裏切るような者はここに置いても仕方がごぎいません。自らの命を捨ててでも、仲間を守ろうとする見事な忠誠心のある者は多少利用価値がありますけれど」
 残念ながらあの男はそうでなかったとルーヤは続けた。リウは満足そうにうなずく。
「その通りだね、ルーヤ。じゃあ、白人たちのアジトも分かってしまったことだし、さっさと始末してしまおうか」
「すでに準備は整っています。リウ様。あとはリウ様から最後のご指示をいただくだけです」
 ルーヤは深々と頭を下げた。
「いいよ。殺っておいで。労働力になりそうなものは生け捕りだよ」
 リウはくすり、と笑う。ルーヤも黒い布の下で唇をにっと歪める。
「かしこまりました」
 ルーヤはテントを出て、外で控えていた数十人に指示する。
「リウ様よりご指示が出ました。抵抗する者は皆殺し、労働力になる者は生け捕りなさい」
「はっ」
 一行はひらり、と馬にまたがり、手々にルーワを握り締めて、一斉に駆け出した。ルーヤも後に続く。
「ナルキ。お前の部下を集めて白人達のアジトの周りを囲みなさい。囲んだ後はホウオ殿のご指示に従って逃げる白人どもを一匹残らず殺しなさい」
 前方を走っていたナルキは馬のスピードを少し緩めさせてルーヤのやや後方についた。
「ルーヤ様は?」
「私はダイとカネを連れて直接アジトを崩します」
 ルーヤはナルキとは反対の後ろを振り向いた。ルーヤについていた、同じく黒づくめの二人が大きく頷いたのを確認する。
「ハクは?」
「念のため、リウ様の護衛に置いてきました」
「分かりました。では、御前を失礼します」
 軽く一礼をしてナルキはルーヤを追い越し、仲間を引き連れて先に行った。
「待っておいで、白人達」
 ルーヤはぎり、と唇を噛んだ。
            *
 薄暗いテントの中で、リウは水面鏡の上に冷たい視線を送った。
「待っておいで、白人達め。せいぜい今のうちに笑っておくといいよ」
 水面鏡に映っているのはリウのいる世界とは異次元を挟んだもう一つの世界。つまり、地球。
 リウ達の祖先がもう一つの世界の存在に気付いた時から、地球への研究が始まった。今では言語も各国の政治状態もほぼ把握している。
「恐ろしいよ・・・本当に恐ろしい」
 リウは形のいい眉を少しひそめた。
 自分達と同じ肌を持った人間が白い肌を持った人間に殺され、略奪され、奴隷として連れていかれ、焼印を押され、過酷な労働をさせられていた。
 白人達が私腹を肥やすためだけに戦ったおかげで黒人達の国はむちゃくちゃにされ、貧しい生活を強いられ、病にかかり、飢え、次々に死んでゆく。
「我々は別に肌の色なんか気にしないけどね」
 リウの祖先が初めてこっちの白人達に会ったのは水面鏡の研究がだいぶ進んだ頃だった。リウの祖先は自らの肌に誇りを持ち、向こうの世界の悲劇を繰り返さないよう、白人を次々に殺していった。
「白が善で黒が悪だなんて、一体どこの誰が決めたといぅのだろ。こっちの白人達に気の毒だけれど、我々も同胞たちと同じ目には逢いたくなかったしね」
 幸い、リウら一族にはルーワという武器があった。これはほぼ体の一部のようなものである。生まれた時から頭に一本生えている、角の一種で十歳を越えると自然にぼろっととれる。ルーワは持ち主の精神とつながっていて、持ち主の念じた通りに働くので、持ち主の精神力が強ければ強いほどルーワの腕は上がる。
「白人は皆、愚かだよ」
 リウは白人達の武器を見て、嘲笑した。
「自分達をも傷付けかねないような物までつくっちゃって。一体何を考えているのかな。銃や爆弾みたいな敵にだってすぐに真似できるようなものしか作れないしね。敵に同じものを持たれちゃったら武器の意味がなくなっちゃうじゃないか」
 くっくっくっとリウは喉を震わせる。
「武器は敵だけを殺すための自分達だけのもの。そんなこともわかんないなんて。どういう神経しているのだろぅ。ルーワなんか持たせたらきっと暴走しちゃって危ないだろうな」
 リウは腰に両手をあてた。リウの両腰には一本ずつルーワが飾り帯に隠されている。五、六十年に一回の割合でルーワを二本生やして生まれる子供がいる。その子は成長すれば必ず一族の長になり、二族の順位は必ずルーワの扱いぶりによってランクづけされる。長の子だからといって必ずルーワが二本生えてくるとも限らない。
「そんな自分たちの愚かさを棚に上げておいて、肌の黒い者を馬鹿にするお前達の姿を見るのは」
 リウはバシャン、と乱暴に水面鏡を叩いた。水滴がピッと黒い衣装にかかる。
「もう我侵できないよ」
 低い声がりん、とテントに響いた。
            *          
「リウ様、ルーヤです」
 日が暮れた頃、戻って来たルーヤはテントの出入り口の前で立ち止まった。
「ああ、ルーヤかい?お入り」
 中から許可を得て、ルーヤは出入り口の皮をめくった。
「失礼します。ご報告に参りました」
「そんなことは分かっているよ、ルーヤ。…で?どうだった?」
リウは優しく笑った。
「リウ様のご籍示通り、抵抗した者は全て殺し、働き手になりそうな者は連れて参りました。今はダイとカネを向こうに残して、生き残りがいないかどうか確認させています」
 ルーヤは無駄なくきっちり報告する。リウは満足そうに目を細めた。うっとりとしながら水面鏡を見た。
「ご苦労だったね、ルーヤ。これでもうこっちの白人達は押さえたね。向こうの世界はどうやら人でぎゅうぎゅうみたいだけれど、こっちは面積の割りには人口が少ないからね。アフリカやアジア、南アメリカから我等の同胞を呼んできて、住まわせよう。きっと楽園ができるよ。生き物らしく、動物らしく生きていこう。結局、人間だって動物さ。それらしく生きていくべきなんだ。私達の祖先がその事に早く気がついてくれてよかったよ。ねえ、ルーヤ」
 リウの独り言のような話を黙って聞いていたルーヤは大きく頷いた。
「その通りです、リウ様。愚かなのは白人。早く我等の同胞を助けましょう」
 リウはルーヤを見てくすくすと笑った。
「お前の心は読めているよ、ルーヤ。お前、自分が向こうの世界に行って白人を殺したいのだろう」
「リウ様…」
 ルーヤはふっと顔を曇らせて、うつむいた。
「図星かな。まあ、お前が私の次に一番水面鏡を見ているからね。私の次に一番憤りを感じていても不思議じゃないよ。実は私もお前を向こうに行かせようかと思っていたのだが」
 リウの優しい言葉にルーヤはぱっと顔を上げた。
「では・・・?」
 リウはまあまぁ、というように手を振った。
「早まったらいけないよ、ルーヤ。向こうで白人を見つけて多少殺したい衝動にかられてもむやみにルーワを使っちゃあ、いけないよ。まずは偵察だからね」
 リウはすっと指をルーヤの顔を覆っている黒布に絡ませた。
「まず、始めは…そうだね、我ちの同胞が一体どういう生活をさせられているのかを実際に見てきてほしい。そしてどのくらいの同胞をこっちに連れてこれるかを考えて…それからだね。楽園を作るのは。病や怪我を負っている者は私達の治癒力を持って治してあげよう.皆で仲良く、平和な村を作るんだ」
 リウは黒布をめくり上げた。薄暗いテントにルーヤの鮮やかな顔がぼんやりと浮かぶ。
「無茶をしてはいけないよ、ルーヤ。お前のこの美しい顔を傷つける事は絶対に許さないよ」
 リウはすっと自分の顔の黒布もめくり、そのままルーヤの唇に重ねた。
 ルーヤは拒まず、ただ瞳を閉じた。リウの冷たい唇の感触が離れ、再び自分の顔が黒い布で覆われたのを感じて、ルーヤは漆黒の瞳を開く。
「あちらの白人達は始末なさらないのですか?」
 ルーヤの言葉にリウはくすくすと笑う。紅の瞳を面白そうに細めた。
「ルーヤ。そんなに白人を殺したい?でも、向こうの白人はこっちよりも数が多いからね。全部殺そうとするのは時間がかかりすぎる。わざわざそんなこっちも危ない目に逢うような事しなくても」
 リウはちちっと水面鏡を見た。
「白人達はもう長くはないよ。自分たちの手によって滅ぶだろう」
 ルーヤもリウの視線を追って水面鏡を見つめる。
「地球はもう駄目のなのですか」
「さあ、分からないな」
 リウはとぼけたような口調で答える。
「ま、今日中に地球上の全人類がいなくなったらもちなおす可能性もあるかもね」
 リウは水面鏡から離れる。自分の手でテントの出入口をめくり上げ、ルーヤにも外に出るように促した。
「行っておいで。もう一つの世界に。だけど無理をしちゃあ、絶対に駄目だからね」
「はい」
 ルーヤはテントを出て、星がき始めた夜空を見上げた。
          *
ガッシャーン
 派手な音を立てて、市場の屋台に積んであった果物が地面に転がった。
 行き交う人々が不審そうな目で屋台にたたき飛ばされた少年を見る。そしてそのまま何事もなかったかのように歩き出す。
 貧しい少年達が店の物をかすめたのが見つかって捕まえられるのは、この辺りではそう珍しい事ではない。
「またお前かっ!このクソガキめっ!今日という今日は逃がさんぞっ!」
 顔を真赤にして怒鳴り散らす中年おやじの前には背中を強く打ったのか、まだ起き上がることの出来ないベーブが果物に混じって道に倒れている。が、その手にはしっかりと盗んだ果物が握られていた。
「百たたきにしてやるっ。ったく黒人はこれだからな」
 指をぼきぼきとならして男はベーブの首根っこをつかんだ。
 もう駄目だ、とベーブはぎゅっと目をつむる。男は顔に冷たい笑みを浮かべて大きく左手を振り上げた。
「っ・・・」
 全身を駆け巡るような痛みに思わず呻いたのは男の方だった。ベーブは恐る恐る瞳を開く。
「その少年を離しなさい」
 漆黒の肌に漆黒の長い髪。形のよい眉をくっと上げて黒目の大きな瞳を光らせた美女が、ぎり、と男の左手首をへし折らんばかりにつかんでいた。
「果物のお代は私が支払いましょう」
 見下すような冷たい視線に男は無我夢中で頷いた。
「わ、分かった。このガキを離すから。あんたも俺を離してくれ」
 男にとっては金さえ払ってもらえるなら、どうでもいいのだ。右手をぱっと離す。ベーブはそのままどさっと尻もちをついた。
「それでよろしいてしょう?」
 美女は自分の指にはめていた、ベーブがこれまでに盗んだ果物の代金を全て含めたとしてもおつりがでるぐらいの高価な指輪をはずして男の左手に握らせた。そして呆然としている男には見向きもせず、ベーブに手を差し伸べた。
「大丈夫でしたか?立てますよね」
「あ…ああ」
 戸惑いながらもベーブは差し伸べられた手を握る。暖かそうに見えたその手が氷のように冷たく感じて、背筋がぞくっとした。
「どうかしましたか?」
 見透かされてぎくりとしたベーブはぎこちなく首を横に振った。
「何でもないよ」
 二人はそのまま裏路を歩き出した。
 ふとベーブが美女の顔を見上げた。
 その視線に気がついて美女はにっこりとベーブに笑いかけた。
「あなたのお名前は?」
 ベーブは数日前にも同じ事を聞かれたような気がした。ぼんやりと頭に白人の少女の顔が浮かぶ。
「ベーブだよ、お姉さんは?」
 美女は立ち止まる。しゃがんでベーブと視線を合わせた。
「私はルーヤ。あなた達を助けに来たのですよ」
「俺達を?」
 ベーブは問い返す。
 あなた達って一体俺と誰なんだろうと考える。弟もかな、と首をかしげた。
「そう、私達と同じ肌を持つ者を」
 ルーヤの言葉にベ−ブはますます頭を混乱させる。
「それ、どういうこと?」
 ベーブの困惑しきった顔を見て、ルーヤはくすくすと笑った。
「あなた、家はある?」
「ないよ」
 ベーブはむっとして答えた.
「家族は?」
「弟が一人…。でも、もうきっと助からない」
 最後の方の声がかすれている。
 外国から派遣されたという施設の医者に弟を昨日診てもらった。過度の栄養失調の上にナントカという難しげな名前の病にかかっているそうだった。建物の中は弟と似たような子供達で一杯で、外に張られたテントの中にすら入れてやることができず、彼の弟は木の下で薄っぺらい布一枚の上で苦しそうに横たわっている。
 せめて何か食へさせてやりたいと思って果物を盗んだのがさっきのことだ。
 ベーブは涙が溢れそうになった。
「…どうしてだろう…」
 ベーブは涙が流れるのを感じて呆然と呟いた。
「何がですか?」
 ルーヤはそんなベーブをじっと見つめる.
「だって…だってさ。あんな奴、いなかったら俺だって世話みなくたっていいしさ、盗んだモンだって分けなくったって全部俺が食えるんだ。あいつがいなかったら俺は心配することだってないし、少しは楽になれるはずなのに…」
 ベーブはぐっと拳を握った。
「なのに…恐いんだ。もし、あいつまでいなくなっちまったら…どうしようって。本当に一人ぼっちになっちまったら…って。そう思うと不安になるんだよ。どうしてだろう」
 ルーヤはすっと指をベーブの頬に近づけた。
「理由は簡単ですよ、ベーブ」
 ぴん、と指で涙をはじかせた。
「あなたが人間だからですよ」
 ベーブははっとルーヤの顔を見た。
「ルーヤ…」
 ルーヤは機械的な口調なのに心がすぅ、と軽くなる。
「さぁ、ベーブ。その果物を弟さんに食べさせてあげましょう」
 ルーヤは立ち上がり、二人は再び歩き出した。
 ベーブは不思議な気分だった。心が落ち着き始めたのと同時に、何かひんやりと冷たいものをルーヤから感じるのだ。
 …………………なんか…怖いな。
 ベーブの頭にちらちらと数日前の白人の少女の笑顔が浮かぶ。

「おい、おいったら」
 ベープはゆっさゆっさと弟の体を揺らした。
「ほら、食い物だぞ。見ろよ、うまそうだろ。なっ・・・」
 弟の顔を見て、はた、とベーブの手が弟の体から離れた。
「お前・・・」
 虚ろに開かれたままの瞳はぴくりとも動かない。赤い腫れ物のできた舌がだらりと口からはみ出ていた。
 ベーブは乱暴に揺り動かした。
「おいっ。おいったら・・・。なぁ・・・返事をしろよ・・・いつもみたいにさ・・・兄ちゃんって・・・。返事をしてくれ・・・!」
 手を止めてがっくりとベーアは膝をついた。震える手で握っていた果物をぐしゃり、と漬した。生暖かい果汁が細い指をつたって、冷たくなった弟の手の上に滴る。
「約束したじゃねぇか・・・兄ちゃんを一人にするなよ・・・」
 熟した果実の匂いにか、それとも人の死んだ臭いにか、蝿がぶんぶんとたかってきた。
 ベーブはそれを追い払おうともせず、ただじっと弟の顔を見つめていた。
 ルーヤはそっとベーブの体を自分に引き寄せて、しばらく日を伏せていた。そして瞳を開くと静かに告げた。
「行きましょう、ベーブ」
 くるり、と体の向きを変えるとベーブは二度と振り返らずに歩き出した。後ろをついてゆくルーヤの瞳は静かに燃えている。                                         *
「ベーブ、さっきの話の続きをしましょう」
 あれから数時間経って、ルーヤは初めてベーブに話しかけた。行きましょうと言ったものの、ベーブに帰る家もなく、結局黒人居留区の路地に入ってしゃがみ込んだままだった。
「さっきの話?」
 ベーブはゆっくりと顔を上げた。どうやら人の話を聞くぐらいは落ち着いたらしい、とルーヤは安心した。
「そうですよ。ベーブ、私達の村にいらっしゃい。他の人達も連れて・・・」
「私達の・・・村・・・?」
 ベーブは呆然と聞き返した。
「ええ」
 ルーヤは誇らしげに笑った。
「黒人だけのね」
ベープはえ?と目を大きく見開いた。
ルーヤの誇らしげな顔を信じちれないと言うように見つめる。
「黒人だけの?」
「ええ・・・まぁ、多少肌の白い者もいますけれど。奴隷同然ですから。いてもいなくても似たような物でしょう?」
 ルーヤはベーブを見つめ返した。
「奴隷同然・・・」
 ベーブはルーヤの強い視線に恐れを感じた。
「リウ様・・・私達の指導者でいらっしゃる方は、こちらの白人達も許すつもりはありません。あなた達をこんな目に逢わせたことを」
「許さないって・・・どうするのさ」
「当然生かすつもりはないでしょう」
 ぎくっとベーブは全身を揺らした。頭にはっきりとグラディスの顔が浮かんだのだ。
「だ、駄目だよ」
 思わず叫んでしまった。ルーヤは片盾を少し歪めた。
「ベーブ?」
「だって白人達が俺等を奴隷にしたり、殺したりしていたのはずっと昔のことだよ」
 ルーヤは思わず嘲笑した。
「まぁ、ベーブ。じゃあ聞きますけど、あなたの弟さんは一体誰に殺されたと思っているの?」
「え?」
 殺された、という言葉にベープは一瞬固くなった。
「飢え?病?そんな間接的なものではないでしょう?こんなに黒人が貧しい思いをしているのも、食べ物も、薬もなく、苦しい思いをしているのも全て白人のせいでしょう?白人さえ私欲に走って人の領地に介入してこなければあなただってこんな境遇ではなかったのですよ」
「そりゃそうだけどさ、でもほら、最近は海外ナントカ隊とかいう人達が来て病院とかしてるし・・・食べ物だってくれるし・・・」
 ベーブは言いながち不思議な気分だった。自分だって白人は大嫌いだったはずなのに。どうして弁護するようなことを言ってしまうのか。どうしてグラディスの顔が頭から離れないのか。
「当然でしょう、そんなこと」
 やって当たり前だ、とルーヤは言った。
「自分達のせいでこんなことになっているんじゃないの。まだまだ足りないわ。第一、病院があるなら、どうしてあなたの弟は亡くなったの?食べ物をくれるのならどうしてあなたは市場で果物を盗んだりしたの?」
 ルーヤの冷たい言葉にベーブは思わず立ち上がった。
「だから・・・だから白人を殺すのか?奴隷にするのか?」
 叫びながらべ−ブは目に涙をためた。ルーヤもゆっくり立ち上がる。
「そうですよ。これは私達からの復讐ですから」
「駄目だよっ」
 ベーブは叫んだ。心の底で強く反発するものがぐっと湧き出した。
「駄目だっ。そんな事しちゃいけないっ。そんなことしたら・・・そんなことしたら・・・俺達だって白人と変わんなくなっちゃうよっ」
 はっとルーヤは目を見開いた。
「・・・ベーブ」
「俺は・・・確かに白人なんて嫌いだ。だから、だからこそ、あいつらと同じ真似なんかしたくないよ、ルーヤ」

 ベーブはぼろぼろと涙をこぼした。ルーヤはベーブの涙の後を追うだけで声が出ない。
「俺は自分の肌に伏し目なんか持たない。誇りを持つよ。ルーヤだって持っているんだろ。だったら白人の真似なんかしちゃいけないよ。それは・・・自分を辱める行為みたいなもんだよ。誇りを砕くようなもんじゃあないか・・・」
 ルーヤの口元が微かに動いた。
「では・・・私達と一緒に来る気もないのですね」
 ルーヤの独り言のような呟きにベーブははっきりと頷いた。
「・・・うん」
「あっいたいた、ベーブ。見つけた」
 重い空気をはね飛ばすような明るい声がベーブの後ろからした。ルーヤははっと目を見開き、ベーブも振り返り、あっと驚いた。
「グラディス・・・」
「・・・やっぱり前の事怒ってる?」
 ベーブの暗い顔にグラディスは首を少しすくめた。
「怒っちゃいないけど・・・。ここに何しに来たんだよ」
 ここは黒人居留区だ。白人は入れない。グラディスは無邪気に笑った。
「何しにって・・・ベーブを探しにだよ。あっちにね、っぱい友達もいるの。ねぇ、今日は一緒に遊べる?」
 グラディスは振り返って後ろを指差す。何やらおもしろそうに笑いながらこっちを見ている子供達の肌の色はまちまちだ。
 ベーブは初めて遊ぶということがどういうことなのか分かった気がした。ただ、一緒に笑っていればいいのだ、と。
「うん、いいよ」
 ベーブは笑って答え、ルーヤのいた方を振り返った。が、薄暗い路地にルーヤの姿はなかった。
            *
「珍しい事もあるものだね」
 リウは馬からひらり、と降りて、湖のほとりで呆然としていたルーヤに近付いた。
「お前が仕事の後で私の所に報告にこないなんてね」
「リウ・・・様」
 ルーヤは後ろを振り返った。美しい顔には既に黒い布が覆われている。
「申し訳ございません」
「まぁ、いいけどね。どうせ水面鏡でずっと見ていたからね」
 リウは軽く首をかしげて、優しい目でルーヤを見下ろした。
「これから・・・どういたしますか・・・?」
 ルーヤはリウを見上げることができず、ただ、じっとうつむいている。
「そうだね・・・どうしようかな。まあ、まずは・・・捕えていた白人達を我々の目の届かない遠い所に放そうかな」
 リウは優しくルーヤの体を引き寄せて、大切そうに腕の中に包んだ。
「やっぱり・・・。我々の祖先の言った通り、我々は向こうの世界に干渉するべきではなかったのかもしれないね」
「私達は間違っていたのでしょうか・・・?」
 ルーヤはリウの温かさを感じる。リウはルーヤの顔を自分の胸に押しつけた。
「我等は誤ってなんかいなかったよ、きっと。ただ、あの少年が我等よりも正しかっただけなのだろうね」
「リウ様・・・。では、私達は・・・これからどうすればいいのでしょう」
 ルーヤはリウの胸に顔をうずめた。
「これから…?さあ、そうだね。このまま自由に生きていけばいいのではないかな」
 リウはルーヤの顔を覆っていた黒布をめくり取った。隠されていた涙が光に反射した。
「私とお前とでね」
「・・・はい」
 ルーヤは瞳を閉じた。暖かい陽射しに、頬をつたう涙が蒸発していった。
              END

  あとがき
 はい。皆様、ごきげんよう。久玲緋伽です.今回は前回大々的に(?)予告した通り、『首』を載せさせていただきました。いかがだったでしょうか。私の周囲の方達は「これはアン・ハッピーエンドだ」と口を揃えておっしゃいましたが、私的には超ハッピーエンドのつもりです。…う−ん。
 『THE OTHER WORLD』の方は…ラストで悩みましたねぇ。リウ様の計画を失敗させるか、成功させるかで。結局失敗したんですけど…もしも成功していたら、私達黄色人種はどうなっていたんでしょうか・・・。
 私はこれで最後の参加となりました。編集の方々、ぺージ数が多い上にわがままばっかり言ってすみません。これで最後なので…そのぅ、この二十ページ、頑張って編集して…下さい。はい。
       では、私はこれにて、どろん。
                 久玲 緋伽