M a r r y
青蓮 李




――――「ごめんなさい」

最初、彼女が何を言ったのか、理解できなかった。
目の前を通り過ぎる瞬間、微かに動いた唇。
彼女と――――隣の男が軽く会釈して通り過ぎた後も、彼はその台詞の意味を掴み損ねていた。
ふいに、わっと歓声が起こる。ブーケが、淡い色のリボンの軌跡を残して、空中に弧を描いていた。
それが六月の空に重なった瞬間。
太陽は唐突に彼の心に答えを突きつけた。

何もいらない
何も望まない
欲しいものは ただ一つだけ

雲間をぬって差し込んできた光。
――――まるで神の祝福のような。
「彼女」は幸せに瞳を潤ませ、皆がそれを祝った。
「幸せ」の構図。
彼がそこへ立ち入ることは出来ない。

――――知る術はいくらでもあった。
ただ、耳を塞いでいただけだ。
――――傷つくことが怖くて何にも触れようとしなかった。
――――失うことが哀しくて何も信じようとはしなかった。

* * *

六月の雨は執念深い男を思わせて嫌だ。
彼はそう思った。
同じ雨なら夕立のように後腐れの無い方がまし。
「どちらにしろ無い方がいい」
そう呟いて、窓に背を向けた。
後ろ手にカーテンを引く。幾分、雨音が和らいだ。

失った時間
失った想い
閉ざされた時間
閉ざされた魂――――

外界から孤立した時間。
それを認めるのが嫌で、普段、部屋には必ず何かしら音楽をかけるようにしている。
それが今日はなかった。
かけるタイミングを失ったといおうか。
昨晩、泥酔して家に帰って来てから、ついさっきまで眠っていたのを、雨音にたたき起こされた。
着たままだったシャツは当然しわくちゃで、かろうじて脱いであった上着も、それ自体は上等なものであるのに、丸めて脱ぎ捨てたせいか、おかしな癖が出来ていた。
――――どうせそう多く着る服じゃない。
そうして着たきりでいることを決め込んだ。

おそらく、空にこびりついている雲を引き剥がせば、太陽は真上にあるぐらいの時間。
横目でサイドテーブルの上の時計を見て、遅まきながら時間の感覚を取り戻そうとする。
不規則に音を強める雨。
何かに八つ当たりしたい自分に似ているような気がした。

月の裏側
太陽の側面
君の向こう側

睡魔はすでに愛想をつかしたのか、傷心の男の元へは訪れてこようとしなかった。

物憂い、蒼い時間が通り過ぎてゆく。
ベッドに身を横たえて、窓の外の冷たい音に耳を澄ます。
何かを掴もうと無意識のうちに左手が宙に伸びた。
それが何であったかはわからない。
欲しがっても手に入れられないもの。
思い当たる節がありすぎて、考えるのも嫌になった。

ぱたん、と、腕の力が抜けた。
寝返りを打ちすぎて弛みきったシーツの波が、指先に触れる。
不快ではなかった。
むしろ、そんなことに気を奪われるのがありがたかった。
――――この日だけは。

ニュイ・ブランシュ――――「眠れぬ夜」
太陽に見捨てられ
子供は月に灯かりを求めた

昨日の空が嘘であったかのように、雨は平然とした顔をして、まだ降り続けている。止んで欲しいと願っていたわけではないが、それを確認してから一層気が重くなった。
シーツとじゃれ合うのにもいい加減飽きて、重い身体を起こしてキッチンへ向かう。
気分が浮いていないとはいえ、お気に入りの珈琲を目の前にすれば、心なし機嫌は上向きになった。
確かに、これとあの人とを天秤にかけるのは馬鹿げている。針は微動だにしないだろう。
瞼を閉じて、考える。
――――彼女がもたらすのは永遠の幸福。
どんなに一瞬を重ねても、永遠は得られない。それどころか、一瞬の狭間に苦しめられるだけだ。
何が一瞬? 何が永遠?
瞼を閉じたままだと昨日の彼女の表情が容易に思い出されて、複雑な気分になった。

気付かなければよかった感情
だけど 本当にそれに気付かなければ
僕は後悔しただろう

――――R、RRRRRRRRRR
とうとつ、に電話が鳴った。
取るべきかどうか、一瞬、躊躇する。
――――RRRRRRRRRRRR
指が受話器に伸びる。それは、どちらかと言えば電話を無視する勇気がなかっただけ――――、自分が、情けなかった。
「はい、恪ウです」
「……蛍くん? わたし。あ……あのね、昨日は、来てくれて、ありがとう。…………それだけなんだけど」
あんなにも聞きたかった声。でも今は何処か遠い。
「蛍くん……わたし」
「大丈夫、元気だよ。気にしないで」
ずっと遠く。
お互いの心は通じていても、感情が頭ひとつぶん足りない。
「……ごめんね。わたし、もっと早く言えれば」
「いいよ、もう。だから」
昨日言う筈だった台詞。まだ時効じゃない。
「――――――――幸せになって」
「! ……ありがと、う」
涙に潤んだ声。
それをまだ愛しいと思う自分がいる。
「それじゃあ、ね」
「……また、電話していい?」
「もちろん」
「――――――――ばいばい」
ばいばい、と彼女の台詞をなぞって、受話器を置いた。

――――これからもまだ、自分は彼女を好きだろう。
それも良いんじゃないか、と心の何処かが告げていた。

「ハ、もしかして僕らって同類――――?」
窓の外の雨はまだ止みそうにない。けれど。

六月の空もいつかは晴れるだろう。
せめて、それまでは。
きみのことを、好きでいてもいいよね――――?

〈 Marry / END 〉