首
久玲 緋伽

 『・・・人ノ首ニハ、不思議ナチカラガアルト言ウ。清キモノヲ魔デ染メ、無垢ナ女子ヲ、破壊ト殺戮ヲ喜ビトスル鬼ヘト変化サセル事ガ出来ルト言ウ。人ハ昔カラ、自ラノ気持チヲ相手ニ伝エルタメニ、自ラノ首ヲ斬ッタト言ウ』

 私の髪や着物は返り血で真っ赤に染まり、顔や手にこびりついた血はぱりぱりに乾いて、軽くこするとぽろぽろとはがれた。
 三日三晩、飲まず食わずで歩いたため、足はもうふらふらだ。今まで何度ももう歩けないと思う度に体に鞭を打ってここまで逃げてきたが、それももう限界である。私はとうとうひざを地面につけてしまった。周りは静かで、微かに水の流れる音がした。近くに川があるらしい。私は最後の力を振り絞って地面を這った。茂みをくぐると、小さな川が流れていた。私は身を乗り出した。自分の顔が水面に映る。醜い顔だ。幼い者が斬られるのを冷静に見つめた目、最後まで命乞いをした姉夫婦を軽く笑い、嘲った鼻、残忍な笑みょ浮かべた口・・・。どれもこれも、以前の私のものではない。そう、私は変わってしまったのだ。こんなに体はボロボロなのに、腹が減ったとも、疲れたとも思わない。心だけが満足感に満たされている。
 私は今までずっと大切に抱えていた少し大きめの包みを取り出した。震える指でゆっくりと結びをほどくとぱらり、と布がはがれて中身が現れる。私はそれを手に取る。冷たくて、青白くて、もう二度と動かない、それ。なのに、表情は私の心と同じ満足感に満ちていて、幸せそうなのである。
 私はそれを抱きしめた。そこから下のない、男の首を・・・

 「どうかなさったのですか」
 私が児玉次郎景綱と初めて出会ったのは、八歳の時だった。兄上や姉上との口論にまた敗けて悔しくて部屋を飛び出し、馬小屋に逃げ込んでいた私に声をかけてきたのがこの男だった。
「早百合様ではないですか、一体こんな所で何をなさっているのですか?」
 顔を上げた私を見て、景綱は少し驚いたように言った。
「また・・・お姉様やお兄様と喧嘩なさったのですか?」
 私はこっくりとうなずいた。景綱はふぅ、とため息をついていた。私が六つ上の兄上と四つ上の姉上と仲が悪いのは家中の者が知っている。兄上と同じ年だった景綱もよく知っていたのだろう。
「しかし・・・早百合様。お父上が心配なさいますよ。早くお部屋に戻られた方が・・・」
「ここがいいの」
 私の腕をつかもうとした景綱の手を払いのけて、私はただじっと馬を見ていた。「・・・馬がお好きなのですか」
 景綱は私の横に立ち、同じように馬の面を見た。
「ええ、そうね。好きだわ。特に目が。優しくて、でも正直なんだもの」
 馬たちは私たちがえさでもくれるのかと思ったのか、柵の向こうに集まって、ふんふんと鼻を鳴らしている。
「そう言えば・・・早百合様がお父上に馬に乗りたいと頼まれて、お父上がたいへん困っていらしたと私の父が申しておりましたなぁ」
 景綱はそう言って何がおもしろいのか、はっはっはっと笑い、そして急に真面目な顔になった。
「いかがでしょう、早百合様。この景綱めにあなたの乗馬のご指導をお任せ下さいませんか」
「・・・いいわ、父上がお許し下さればね」
 それが私たちの出会いだった。

 景綱は父上の直臣の児玉殿の次男で、文学にも武術にも優れ、気がきくし、親切で、しかも顔がいいとうちでは評判の家来だった。
 私はこの男に馬の乗り方を教えてもらい、ときどき他の者を二、三人つれて遠乗りに出かける事もあった。
・・・不思議な男だ。
 私は景綱を見る度にそう思った。困ったような顔をしたかと思えば急に豪快に笑ったり、豪快に笑ったかと思えば急に真顔になったりと表情がくるくると変化して、一体何を考えているのか読めないのである。私は景綱に興味を持っていた。 そんな私も十四歳になり、縁談が父上のもとにたくさん来るようになった。その中から父上にとって一番都合のよかったものが選ばれ、私はめでたく輿入れする事になったのである。私は別にそれに対して嫌だとは思わなかった。兄上も姉上も同じようにして結婚していたし(しかも兄上は二児の父だったりする)、そうするのが普通だったからだ。ただ、一度だけ・・・縁談が決まってから初めて景綱に会った時を除いて。
 あの時廊下ですれ違った時、あの男は頭を下げて「この度はおめでとうございます」と言った。それは別にいい。景綱は私の父上の家来なのだから、主の娘が嫁に行く事に対して祝いの言葉の一つや二つ、述べるのは当然である。ただ景綱を見たとき、背筋がぞくっとしたのである。頭を下げているその背後にはゆらゆらと黒い影が揺れ、顔を上げたときその顔は穏やかに笑っているのにどこか悲しげで、どこか寂しげで、どこか残忍そうだったのである。思わず立ち止まってしまった私にもう一礼して、景綱は通り過ぎて行った。

 そして私が輿入れをする時、景綱は護衛隊の隊長をしてついてくる事になった。ついてくると言っても、私が相手の家につけば私と数人の侍女を置いて彼らは父上の所へ戻るのであるが。いわば見送り係のようなものであった。
 相手の家には二日がかりで行く。馬にまたがれば半日で着くところを輿でのろのろと進むのである。
 そして一日目、日が暮れて周りが暗くなると一行は止まり、そこで休むことになった。数人の見張りだけが起きていて、私の侍女らもぐっすり眠っているようだった。
「早百合様、起きてらっしゃいますか」
 私は眠っていなかった。景綱がそう声をかけたのでむっくりと起き上がり、何か用かと尋ねた。景綱は少し苦笑した。
「いえ、最後に馬に乗りに行きませぬか。あちらのお家に行けば小百合様ももう二度と、馬にまたがることもございますまい」
 それもそうだと私は思った。普通、女子が馬に乗ることはない。それを無理を言って私は父上に乗馬の許可をとったのである。無論、結婚先の家で馬に乗ることは出来ない。今日だって一日中輿に揺られていて、退屈だったのだ。明日にはもう相手の家に着いてしまう。今夜が最後なのだ。
「いいわ。見張りに見つからないように、こっそり行きましょう」
「大丈夫ですよ」
 景綱はすでに馬を用意していたらしく、私達はそれに乗って走り回った。これで最後なのだと思うと、なんだか妙に寂しくなって、ずっとこのまま乗っていたいと思っていた。
 やがて東の空が白くなり始めた時、私ははっとして馬を止めた。
「大変だわ景綱。早く帰らなければ。他の者が心配してしまうわ」
「そうですね。では、早百合様・・・」
 景綱も馬を止めて私の横に並んだ。
「では最後に、私の話をきいて下さい」
「話?」
「ええ、そうです。わたしにとってはとても大切な話なのです」
「大切な?何?いいわ、言ってごらんなさい」
 相変わらず、先の読めないこの男の話というものを聞いてみたかった。第一よく考えてみたら、今から嫁に行こうとする主の娘を一晩中馬に乗せて駆け回ったというのも変な話である。
「人の首には不思議な『力』があるのだそうです。胴体とつながっているときはまったく働かないのですが、首だけになると不思議で強力な『力』が発揮されるそうです。その『力』というのは自分の気持ちを相手に伝え、相手がどれだけ自分のことを思ってくれているのかを計ることが出来るものだと言います」
「そんなの直接口で伝えればいいじゃない」
 私の言葉に景綱は首を横に振った。
「口では伝えられられない事がこの世の中にはたくさんあるのですよ。どんなに伝えたい、知らせたいと思っていても出来ない事があるのです。そして、言葉というものは信用できません。言葉は飾る事も嘘をつく事もできます。そうではなく、ただ本当に相手の気持ちが知りたくてたまらないとき、、人は自分の首を斬ると言われております」
「でも、首を斬ってしまったら死んでしまうわ。相手に気持ちが伝えられても、死んでしまっては意味がないじゃない」
 私はこの男が一体何を言いたいのか分からなかった。
「それがあるのですよ、早百合様。人とは不思議な生き物でしてね、気持ちが伝わればそれていいと思えるときもあるのです。気持ちが伝わったから次にどうするとかいう問題じゃないのです。気持ちが伝えられて相手の意志が確認できれば、そこで終わり。それで満足出来るのですよ。その満足感を得るために人は命をかけるのです」
 景綱の顔は真面目だった。まっすぐに東の空を見つめている。
「しかし私は・・・武士として、恥ずかしながら、自ら自分の首を斬る事が出来ませんでした。だから・・・」
 だから何だったのだろう。彼がその続きを言おうとしたとき、一本の矢が彼の背中に刺さったのである。
「さ、早百合様。ご無事でしたかっ」
 数人の家来達が駆けてきて、何が何なのか、さっぱり分からず呆然としている私を馬から降ろし守るように囲ったのである。
「おのれ、この謀反人め!」
 家来が次々に景綱に斬りかかる。いくら武術に優れていたとはいえ、深手を負っていて多勢に無勢だった景綱はあっさりと斬られた。始めから抗う気がないようにも見えた。
 ただこの男の首を見たとき、明らかに私の中の何かが変化したのである。どくん、と大きな音を立てたかと思うと、急に胸が苦しくなった。頭がくらくらして息が荒くなり、気がつくと私は泣いていたのである。

 私は他の家人に保護されるようにして、父上のもとへ帰った。縁談は一度延期された。帰ったとき、母上が飛び出してきて私を抱きしめた。そしてあの晩のことを語ってくれたのである。
 あの晩、景綱は一行の酒に薬をいれていた。飲むと全身が痺れて麻痺してしまう毒である。量によっては死ぬ事もある。侍女らは眠っていたのではなく、体が動かなかったのだ。その内、数人は今でも重症らしい。見張りが私達に気付かなかったのもそのせいである。あの時の景綱の「大丈夫ですよ」という言葉はこういう事だった。私を連れて逃げてどうするつもりだったのかは分からないが、これは明らかに私の父上に対する謀反行為だと母上は言った。あの男の首は今謀反人として晒されているという。
 ・・・・・・違う。
私は思った。これは謀反ではないのだ。だってあの男はこう言っていた。『自ら自分の首を斬る事が出来なかった。だから・・・』だから、誰かに斬ってほしかったのではないか。騒ぎを起こして。私に気持ちを伝えるために。どうしても命をかけたかったのではないだろうか。
 ・・・ならば、私のとる道は一つだった。私の意志をあの男に伝えてやらなければならない。私はもう、景綱の首の不思議な『力』を受けてしまっっていたのだから。
 そして・・・そして私は家にあった水がめに、同じ毒を投げ込んだ。その晩、父上と母上は毒で死んでいた。四肢のきかない兄上を斬り、あまりの恐ろしさに腰を抜かして動けない二人の子供にも刀を振り降ろした。必死に命乞いをする姉夫婦を軽く鼻で笑った後刺し殺した。私は帰り血を浴びて、髪も着物も真っ赤に染まった。きっと私は醜い顔をしていただろう。ただ心だけは満足だったのである。晒されていた首を取り戻し、布で包むと大切に抱えて私は森に逃げた。後はもう、何が何だか分からずただひたすらに歩いていた。もう何人斬ったか覚えていない。毒で立てない家来にも私は刃を向けたのだ。これが首の『力』なのだと思った。
 私は抱きしめた首をもう一度よく見た。私の意志が通じたのか、幸せそうに笑っているのである。私も笑った。ああ、幸せだと思った。
 人の首には不思議な『力』がある。人とは不思議な生き物で、自分の気持ちを相手に伝えたがり、相手がどれだけ自分の事を思ってくれるのか確かめたがる。首にはその力があるという。私達は互いの意志を確認した。だからそこでもう終わる。私達は互いに満足だった。それが首の『力』である。二人を幸せにする『力』なのだ。