アクアクレウスのくらげ

西荻 すみか

俺が、この町に引っ越し、祇伎高校に入って一ヶ月がたとうとしていた。今日もまたマンネリ化してきた退屈な一日が始まろうとしている筈だった。


いつもの時間、いつもの駅にいつもの電車が止まっている。もう乗りこんでしまったのか、ホームに人は、いないようだ。
そこに、一人の男子校生とおぼしき人物が、走ってくる。
「ピーーーーーーーーッ。」
もうすぐ電車が、発車してしまう。その少年は、電車の中に駆け込んだ。
「はぁ、はぁ、なんとか……間に合ったな。」
少年は、ひどく息をきらしていた。
扉が閉まり、電車が走り出す。
この少年の名は、樫月 海利。先月から、祇伎高校の、一年D組に所属。長くも短くもない黒髪と、同じく黒い目をしている。服装は、制服である薄青のシャツと紺のズボンをほどよく着くずしている、という感じだ。
海利は、辺りを見回した。ラッシュ時の適度に田舎の下りというものは、もともと人が少ないものだが、今日は、人っ子一人いない。不思議に思いつつも、窓の外を見て、海利は、自分の目を疑った。下りの筈の電車が、上りに向かって走っているのだ。海利は、時計を見た。
だけど、違う時間の電車にのったわけではなさそうだ。
車掌に言いに行こうとしたが、海利の乗っている三両目と二両目の扉は、固く閉ざされていた。
「何なんだよ。コレ……。」
海利は、呆然と立ち尽くし、一言そう呟いた。
数分して、更に驚くことが起こった。車内から、海が見えるのだ。自慢ではないが、今、海利が住んでいる所は、完璧な内陸部で、海など、すぐに見られる筈がないのだ。
電車は、トンネルの中に入っていく。真っ暗なトンネルの中、電気のついた電車が走っていく。
電車がトンネルを抜けた。海利がそこで始めて見るのは、晴れた空にクラゲのように淡く透き通る月。辺りに、建築物は少なく森と川と草原の向こうに、城があり、進行方向のあたりに、民家のようなものが、五、六個あるだけだった。
海利が、その風景を食い入るように見ていると、突然電車が止まり、扉が開いた。電車が再び動きだす気配は、まったくなかつた。
「ここにいてもしかたがない。外に出るか。」
ホームなんて物はないから、海利は、扉の所から地面に飛び降りた。
「ここどこだ?日本か?」
海利は、電車が走ってきたんだから車掌がいるだろうと思って、一両目の方向に歩き出した。
電車が視界の片隅に入る。しかし、そこにあった電車は、見る見るうちに錆びて、コケが生え、植物の蔓がからみついていく。
「この光景、どっかで見たような気がする……。」
(そうだ。もののけ姫だ。あの鹿みたいなやつの力で…って、何考えてんだよ、俺……。)
海利の脳裏でそんな妄想(?)が数十秒続いた。
「ねえ、君、何そんな所でもだえてんの?」
自分の背後から、声が聞こえ、海利は、ビクッと肩を震わせて振り替えった。
そこには一人の青年が立っていた。第一印象は、緑。
目測十七歳程度の青年は、ライトグリーンの長い髪をうなじのあたりで茶色の紐で結び、緑のコートのような服にうすいベージュのバックを左肩に下げている。ニッコリ目をつぶっているので、目の色は分からない。額には、何に使うのか、ゴーグルを付けている。
海利が、観察するように見ていると、その青年は、声をかけてきた。
「君、あっちの人っしょ。何でここにいんの?」
「あっち……?」
言っている意味がわからず、海利は反復するように言った。
「うーんと。君の住んでる世界…つまり、日本やアメリカ、ドイツなんかがあるとこがあっちで、ここは、アクアクレウスっていう世界。…なんだけど、どうやってここにきたの?」
「どうやって、って言われても。この電車に乗ったら、ここについたんだけど……。」
海利は、忘れかけていた事を思い出し、(まさかっ)と思った。
「えっ!君、あれに乗れたの。いつ?どこで?」
驚いているようだけど、目はニッコリとしたままだ。
「月寒駅だけど。」
半ばあきらめたように海利が言う。
実を言うと、海利は、これと似たような体験を以前二回ほどした事があった。一回目は五歳の時、パラレルワ―ルドに二時間ほど。二回目は八歳の時、シネラニアという異次元の国に半日ぐらい。
(五歳の時は同じ風景だったけど誰もいなかったんだ。八歳の時は現地の子供と遊んでたら、いつのまにか家にいたんだよな、確か。あれから、変な事起こんないから、忘れてたのに……。ま、今回も言葉は通じるみたいだし、この人、日本の事知ってるってことは、帰れるだろうし、いっか。)
海利がそんなことを考えている間、青年も一人ブツブツと呟きながら、何かを考えているようだった。
「ピピピピピピピピ……。」
突然、時計のアラームのような音がした。
青年は、その音を出していた四角い物をバックからとりだし、音を消しながら言った。
「あ、もうこんな時間か。君、どうせ帰り方知らないんっしょ。僕、今仕事中だから手伝ってくれたら帰したげる。どうする?」
海利は、しばし考えて言った。
「帰りたいけど、何で俺が手伝わなきゃなんないのさ。」
「帰してあげたいけど、タダでやるってなんか嫌じゃん。それとも、君他に何かできることある?」
青年は、うれしそうに言う。
一方、海利は、かなり不服そうな顔をし、なにも答えなかった。
「決まりだね。ところで君、なんて名前?僕は、カケヒっていうんだけど。」
「樫月 海利。」
まだ不服そうに海利は答える。
「ま、そう怒らないで、カイリ。あとは、歩きながら話そうか。」
そう言って、カケヒは歩き出す。しかたなく海利も後を追う。
月は、海利が、アクアクレウスに来た時のまま、昇りも、傾きもせず、空に浮かんでいた。
二人が歩き出して、かれこれ三十分がたとうとしていた。今、二人は、草原の中を歩いていた。前方には、城が見える。電車の中から見たあの城だ。他には何もないので、カケヒがその城に向かっていることは、海利にも分かった。
「なあ、カケヒ。城なんかに行ってどんな仕事をするんだ?おまえ、まさか、そんな格好で大臣とかいうんじゃないだろうな。」
「うん。ちがうよ。僕は、このアクアクレウスを治めているイミナにちょっと呼ばれてね。彼の頼み事を聞きに行くんだよ。」
「ふーん。で、俺は、何をすればいいの?」
「それは、イミナに会ってからって事で。」
城は、ヨーロッパの古城のような外見で、そこには圧倒的な存在感はあるが、誰もいないかのように静まり返っていた。中もシーンとしている。しかし、この静寂は、海利を不快にはさせず、水の中にいるような落ち着きのあるものだった。実際、この城の中には、たくさんの水槽があった。そこにいたのは、魚ではなく、数百匹におよぶミズクラゲだった。クラゲ達は、波のない海水の中を、ゆらゆらと、戯れるように泳いでいた。
海利とカケヒは、二階の一番奥の一番大きな部屋に入っていった。その部屋は、玉座の間のようになっていて、部屋の奥の玉座には、海利と同じぐらいの年齢に見える少年が座っていた。
少年は、褐色の肌に薄紫の髪、ワインレッドの目という不思議な色をしている。そして、真っ黒な服を着て、頭に灰がかった紺のターバンを巻いていた。左耳には、青い小さなピアスをしていた。
「やあ、イミナ、今朝会ったばかりだけれど元気?」
カケヒは、親しげに声をかけながらイミナという少年の方に歩いていく。海利も五メートルほど間を空けて、それに続いた。
「ああ、何にも変わっていないよ。ところで、その子は誰?」
意味ありげにイミナは、カケヒに聞いた。
「この子は、カイリ。あっちの世界から来た迷子くん。」
それを聞いたとたん、海利の表情が変わった。迷子くんという表現が気に入らなかったのだろう。しかし、海利は、その場で何かを言うことは、出来なかった。
再びカケヒが話しだす。
「ところで、僕に頼み事ってなんだい?いつものやつのこと?」
(いつものってなんだろう。)
と、海利は、思った。
「いつものもだけど、今日は、ほかにもあるんだ。頼めるかな。」
「ま、内容にもよるけど。」
「実は、何年か前に、どっかの世界で落としたなにかを探してほしいんだ。」
海利は、驚いた。イミナは、何か分からないものを探せ、と言っているからである。
「いいよ。どうせまた、今ではもう思い出せないけれど、とても大切なものだったはずなんだ、って言うんでしょ。」
「うん。」
天使(見ようによっては悪魔)の笑みでイミナは、答える。
でも、カケヒは、いったいどうやって何だかわからない物を探そうと言うのだろうか。
海利が、そのことをカケヒに問おうとした時、カケヒは、イミナに話し掛けた。
「でも、今日は、いつもののついでにカイリ送ってくるから、明日の月が揺らめく時までってね。」
「そのぐらいのことなら、いいよ。」
その会話を聞いて、海利は、いてもたってもいられなくなって、カケヒにひっそりと聞いてみた。
「ねぇ、いつものって何。それに、月が揺らめくって。」本当に小さな声で話していたし、海利からイミナまでは、五メートルはゆうに空いているのに、イミナには、聞こえていたらしく、カケヒから返ってくるはずの答えは、イミナから、返ってきた。
「いつものって言うのは、この城に集められた、いろんな心を選り分けて、送り届けたり、浄化したりすること。月が揺らめくっていうのは、このアクアクレウスでは、月は、動かないし、満ち欠けもしない。日中は、明るいし、夜は暗くなるけれど太陽はないんだ。」
「そんなっ……。」
海利は、驚いて、口をはさもうとしたけれど、それは、イミナの話に遮られた。
「で、空が暗くなると、月が水面に写る月、又は、クラゲのように揺らめきだすんだ。明るくなるまでずっとね。そっちの世界でいう日没から日の出までって所かな。」
海利は、唖然とした。
話が途切れたことを確認して、カケヒが言った。
「イミナ、あんまり遅くなると、カイリが帰れなくなるから、連れていってもいいかい。」
「ああ、でも今日のは、終わらせろよ。」
「大丈夫だよ。カイリにも選り分け手伝ってもらうから。」
「ふーん。」
しばしの沈黙が続く。そして、カケヒとイミナは、意味ありげな笑顔と視線を交わしていた。
海利とカケヒは、一階の奥から二番目の部屋に入った。そこには、十センチ四方ほどのグレーの箱が山積みになっていた。箱の表面には、1か2か0という数字が書かれているようだ。
「じゃ、カイリ、1と2と0の箱に分けるの手伝ってね。早く終われば、帰れるけど、ゆっくりやっていると仕事が増えてくから気を付けてね。」
「分かった。」
そして、黙々と作業が続く。最初の量だと、三十分もあればおわりそうだったのだが、もう、一時間以上働いている。仕事が増えるというのは、箱の数が増える、ということだったのだろう。海利は、腕時計を覗いてみた。すると、もう五時をまわっていた。海利は、昼食をとっていなかったが不思議とおなかはへっていなかった。
「カケヒ。さっき聞けなかったんだけどこの箱の中身って心なの?」
「そうだよ。ってもうこんな時間か。それについては、また後で話したげるから、1と2の箱を急いで外に分けてだして。」
箱を外に出し終えた。空は、赤く染まっていたが、月は、相変わらず同じ位置にあった。
二、三分すると、月がゆらゆらと、揺れ始めた。城に数百匹いたクラゲのような動きである。とてもきれいである。
「1の箱の所に行って。」
カケヒがそう言ったので行ってみると、突然、箱が光り出した。
海利は、あまりの眩しさに、目をつぶった。
目を開けると、海利は、箱といっしょに電車に乗っていた。運転席には、カケヒが乗っている。電車が走り出す。トンネルを通り、海岸線を抜けて、月寒駅に着く。電車の扉が開く。海利は、ホームに降りた。
「話せなかったことは、これに書いてあるから、どうしても気になるんだったら読んで。」
と言って、一枚の紙を海利に手渡した。扉が閉まる。お互いに、別れの言葉を告げることなく、電車は、走り出す。空は、もう暗く、東の空には、黄金色に輝く、満月が、出ていた。


END